ヨーロッパ周遊 4ヶ月 #5/9 1968年

ヨーロッパ周遊
4ヶ月 #5/9 
1968年

バルセロナからリヨン、ジュネーブ、ローザンヌを経てベニスに向かった。

8月26日 バルセロナ19;15発、セレブレ23;45発>列車中泊⑰>8月27日リヨン7;21着

8月27日 リヨン7;21着、St Juan Hotel de Ville。リヨン10;02発、ジュネーブ12;18着、Palais de Nacion, Union de professional ジュネーブ18;18発。ローザンヌ0;59発。

ジュネーブにて

ジュネーブのレマン湖のほとりを散策して、眺望の良い周辺の小高い丘に登った。そこには小さな洒落たホテルがありその前は、そこそこ賑やかな広場になっっていた。地面には各種の新聞が置かれていて、アテンダントは居ず無人で、必要な人はコインを木箱に入れ入手する様になっていた。このシステムはスイス以外では成り立たち得ないと思い、とても印象に残った。

公園のベンチに.座り、青空の下で山々に囲まれた輝くレマン湖を眺めていた。とにかく美しい。すると、近くに人の気配がした。近寄ってきたのは東洋系の若者だった。いきなり日本語で話しかけてきた。要件は彼の所有しているカメラを買ってほしいとのことだった。カメラは2つは要らないので断ったが、彼の旅の途中での金欠に思いを致した。

当時の若者には海外無銭旅行を厭わない風潮があった。筆者のヨーロッパ周遊中には、日本の若者でお金を切らして、パリやアムステルダムでレストランの皿洗いなどをしながら、旅を続ける同輩の現場をいくつか目にしてきた。

8月27日ローザンヌ0;59発>列車中泊⑱>8月28日ベニス 7;30着

ヴェネツィア ベニス Venezia

8月28日 ベニス 7;30着

ヴェネツィアの成り立ち を調べてみた

ヴェネツィアの歴史は、3世紀以降の民族大移動から始まる。5世紀になりヨーロッパでは、ゲルマン民族などによる侵略が繰り広げられ、イタリアにも侵入してきた。

ヴェネツィア周辺に住んでいた人々は潟に杭を打ち、その上に家を建てたり島に運河を巡らせて防衛した。陸からは干潟なので攻めにくく、またアドリア海方面は砂州や島々により隔離されていて、天然の要塞のような海上都市を生み出すことが出来た。

7世紀に干潟全体を統括する政体、ヴェネツィア共和国が誕生。その後、地中海貿易の拠点として発展し、14世紀から15世紀にかけて全盛期を迎えた。

ヴェネツィアの干潟

ヴェネツィア・サンタルチア駅

スイスの国境のシンプロントンネルを抜けると、豊かなイタリアのロンバルディア平野に至る。列車が終点のベニス駅に近づくと京浜工業地帯の様な無機質な工業地帯が広がっている。工業地帯を通り抜けると、いきなり海の上に出て海上を5㎞程走ると、島に着き終着ベネツイア・サンタルチア駅に列車は止まる。

サンタルチア駅とヴェネツィアの見どころであるサンマルコ広場は3~4㎞程の距離である。もう一つの見どころカナル・グランデは「S字」にカーブを描いており、街を二分している。

サンタルチア駅はヨーロッパで多い櫛型のそれで、28番線まであるそうな。駅前広場は充分に広いが、もう車を見ることがなく、正面はカナル・グランデ(大運河)で区切られている。この地点からは橋を渡り、中世の街の迷路の様な小道を自分の足で歩くか、有料の水上タクシーや小舟(ゴンドラ)で運河を行くか、二通りの移動手段となる。

終点・サンタルチア駅

カナル・グランデ(大運河)

カナル・グランデはヴェネツィアの街を二分割するようなS字形で流れている「大運河」のことで、その長さは3800mある。 カナル・グランデは「世界で最も美しい通り」 と言われている。

カナル・グランデ, 1968年8月28日 筆者撮影

カナル・グランデ沿いに建ち並ぶ商館やその他の建物は、運河側が正面である。裏側には小道がありアクセスが出来る。

カナル・グランデ, 1968年8月28日 筆者撮影

カナル・グランデ, 1968年8月28日 筆者撮影

カナル・グランデとゴンドラ,  1968年8月28日 筆者撮影

カナル・グランデで休憩する人々, 1968年8月28日 筆者撮影

PONTO DI RIALTO  リアルト橋

カナル・グランデに架かるリアルト橋

リアルト橋。1591年に、長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mの太鼓橋が完成した。

カナル・グランデに架かるリアルト橋, 1968年8月28日 筆者撮影

サン・マルコ広場、PIAZZA SAN MARCO

サン・マルコ広場は、海に面したヴェネツィアの表玄関である。アドリア海を通して、地中海、エーゲ海、黒海とつながっていて、各地より富がもたらされた。広場はサン・マルコ寺院や回廊のある建物に囲まれ、ドゥカーレ宮殿は海に面している。世界で最も美しい広場と言っても良い。

ナポレオンが「世界一美しい広場」と称賛したという。

サン・マルコ広場の鳥観図

サン・マルコ大聖堂:Basilica di San Marco

サン・マルコの遺物を安置するために建設されたビザンティン様式の大聖堂。

マルコの遺物は、828年にエジプトのアレクサンドリアからヴェネツィアの商人たちが持ち込んだという。このマルコの遺物は世界各地から巡礼者や商人を引き付けることとなった。

この華麗な大聖堂は、ギリシャの建築家による設計で、 竣工は 1094年というから丁度鎌倉幕府の誕生と年代が重なる。ビザンティン様式のデザインで東方コンスタンティノープル(現イスタンブール)方面の影響を受けていて、かっての地中海世界のフィーリングを色濃く宿し、サン・マルコ広場がそれを引き立てている。

ファサードの頂上部に設置された有翼のライオンは聖書を抱えたマルコを表しています。

中世の内陸ヨーロッパの重々しいゴシック様式の教会建築とは対照的に、ベニスの宗教建築や運河沿いの商館建築のデザインは独自のもので、海に開かれ開放的な都市空間を表現し、それに成功している。

サン・マルコ広場からサン・マルコ大聖堂を望む。右手に鐘楼,
1968年8月28日 筆者撮影

ビザンティン建築は、5、6世紀ころから、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)勢力下で興った建築様式。正方形の平面、ドーム、金地の華麗なモザイク、などの特色がある。(写真下)

サン・マルコ大聖堂,  1968年8月28日 筆者撮影

サン・マルコ大聖堂, 1968年8月28日 筆者撮影

ドゥカーレ宮殿 PLAZZO DUCALE

9世紀/12世紀から14世紀,ヴェネツィアの総督邸兼政庁であった建造物。サン・マルコ大聖堂に隣接した敷地にある。
ドゥカーレ宮殿は住宅、行政府、立法府、司法府、刑務所という複合機能をもった建物であった。このファッサードは、イスラム建築の影響を強く受けた表情をしている。

ドゥカーレ宮殿ドゥカーレ宮殿前の船着場, 1968年8月28日 筆者撮影

鐘楼。 Campanile di San Marco

鐘楼は1514年に現在の形で完成。1902年に崩壊。1912年再建完了。高さ約100m.

1968年8月28日 筆者撮影

左に鐘楼、右にドゥカーレ宮
ドゥカーレ宮前の船着き場から陸側の風景を見ようと、水上バスに乗って海面に出てみた。振り返って見ると写真の様な光景が広がっていた。ながい航海後の乗組員たちは、ここに帰り鐘楼の光景を見て、気持ちが高まったに違いない。充分に理解できる.

左に鐘楼、右にドゥカーレ宮, 1968年8月28日 筆者撮影

8月28日ベニス15;15発、トリエステ17;00着。ベニス城、大聖堂。 トリエステ21;40発。

トリエステ

トリエステは、第一次世界大戦前までは長らくオーストリア・ハンガリー帝国の領域内で、アドリア海への出口の重要港湾都市として繁栄した。第一次世界大戦後にイタリア領となるが、第二次世界大戦後はイタリアとユーゴスラヴィアとの間で帰属が争われた。

ヴェネツィアからトリエステへの鉄道ルート

8月28日ベニス15;15発、トリエステ17;00着

トリエステが近くなると、ロンバルディア平野は後ろに退き、山塊がアドリア海に迫り、崖の淵を列車は進んで行く。

ヴェネツィアからトリエステへの鉄道ルート, 1968年8月28日 筆者撮影

1954年にイタリアとユーゴスラビア(今日のスロベニア)によって分割された。トリエステ市の一部はイタリアの領土となり、南部の一部はユーゴスラビアのものとなった。これによりトリエステは、国境の町となり、過去の広大な後背地を失って今日に至る。

トリエステを丘の上から

トリエステでは、ベニス城、大聖堂を見学し、丘の上から市街地を眺望した。1968年当時は、山脈の尾根の辺りは東西冷戦の鉄のカーテンであり、その向こうは禁断の地域であった。

トリエステ市の丘から市街地を眺望, 1968年8月28日 筆者撮影

ベニス15;15発、トリエステ17;00着。ベニス城、大聖堂。 トリエステ21;40発。

ミュンヘン

8月28日トリエステ21;40発>列車中泊⑲>8月29日ミュンヘン7;30着

8月29日 ミュンヘン 、美しい街だ。イタリア人が多い。市庁舎、大聖堂、

テアティーナ教会(Theatiner Kirche)

ドイツ・バイエルン州の主都ミュンヘンの中心部にあるランドマー的なバロック中期のバジリカ教会。17世紀に建てられた。ツィンタワーの鐘楼。

1968年8月29日 筆者撮影

ドイツ博物館でまる一日つぶす。完璧な模型、解りやすい物理、化学の実験装置。大掛かりな鉱山、金属部門。1日ではとても観きれない博物館。

1968年8月29日 筆者撮影

ヒトラーとナチスが誕生した街

1919年、第一次大戦に敗北したドイツ。
超インフレなど、社会不安と民衆の不安が広がるミュンヘンで、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ナチスは台頭した。

1920年2月24日、ミュンヘンのビアホールホーフブロイハウスでは最初のナチス党の結成集会が開かれた。

今でも約3000人を収容する巨大ビアホールで、夏には野外ビアガーデンもオープンする。筆者もそこでビールを飲むことにした。注文すると体格の良い若い女性給仕が、700mlはありそうな巨大なジョッキを持てるだけ持ち(片手に4個、両手で8個)、各テーブルに忙しく配達している。これがミュンヘンでの強烈な印象として残った。

チェコスロバキアへの軍事介入 1968年8月20日

ロンドンまでの道中で合ったチェッコの友人に、また館内で出会う。
彼はチェッコスロバキアの混乱で、帰国をとても案じていた。

8月20日夜11時頃、ソ連率いるワルシャワ機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロバキア全土を占領下に置いた。ミュンヘン滞在中の9日前の出来事だった。

ミュンヘンオリンピックと移民労務者

当時の西ドイツ・ミュンヘンの街は4年後の1972年オリンピック開催をひかえて、街中が工事現場の様相であった。地下鉄の工事現場を見下ろしていると、底のほうから聞きなれない言語(非ドイツ語)が聞こえてきた。この頃からトルコなどの移民建設労働者を招き入れ、3K仕事に従事させているのを見た。

8月29日ミュンヘン>列車中泊⑳>8月30日パリ8;30着

8月30日 8;30パリ着。北欧への旅支度。14;50パリ発、15;50シャルトル着、シャルトルの町は小さいが、清潔だ。大聖堂のステンドグラスのすばらしさ。17;20シャルトル発。18;20パリ着。23;20パリ発。

8月30日パリ23;20発>列車中泊21>ケルン7;15着

8月31日  ケルン7;15着、 ケルン8;12発、ドイツ平原、雨が降り続き、ケルン・ハーヴェン・ブレーメン・ハンブルグと進む。 ハンブルグでラトハウス見学、帰りは雨で、ずぶぬれになる。イギリス在住アルゼンチン人に出会う。

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