ENG | JAP
地球の裏側へ行ってみよう
#3/3
シンガポール→リオデジャネイロ
海外渡航、1962年
ボイスベイン号搭乗記 3
横浜Jun11 神戸Jun17 香港Jun22/24
シンガポールJun28/Jul02 ペナンJul06
モーリシアスJul15 ローレンソマルケスJul20
ダーバンJul22/25 ポートエリザベス
ケープタウンJul30 リオデジャネイロAug08 サントス
シンガポールからインド洋へ。そして初めて赤道を越える
その後、ペナン島を経て船は無事にインド洋に入りアジア大陸とはお別れになり、インド洋上の船では赤道祭が行われた。当時の欧米人の船客も含め北半球の人達にとって、赤道を越え南半球に入るという瞬間は、人生での大きなイベントに違いなかった
モーリシアス島
モーリシアス島はポルトガルの航海士が1507年に、訪れる前は無人島であった。 1638年、オランダが殖民を開始したが、1710年にこの島を放棄。1715-1810、フランスの植民地。1810-1968、イギリスの植民地を経て独立。
現在の人口は2016年に126万人。
インド系68%、アフリカ系27%がほとんどを占める。過っての無人島が、今はアフリカで1番の人口密度になり、1人あたりのGDPがアフリカで3位のエキゾチックな場所である。

モーリシアス島
ポルトガル領モザンビーク
モーリシアス島、ポートルイスに錨を下ろし、その後ポルトガル領モザンビークで久しぶりに上陸をゆるされる。
首都ローレンソマルケス(現マプト)の街中にあるしゃれたカフェに入る。ここは東京にある当時の喫茶店とは雰囲気が違う。コーヒーの味はもちろん給仕の人もポルトガル語を話すアフリカ人だったからだ。
ここで始めて1年間かけて個人教授から習った、今後ブラジルで必要になるポルトガル語を初めてラテン系アフリカ人と話すことが出来た。

ローレンソマルケス(現マプト)市街地のビル.
写真 筆者撮影 1962年

コロニアルな建物 ローレンソマルケス.
写真 筆者撮影 1962年

ローレンソマルケス(現マプト) 重厚な教会.
1962年 筆者撮影。
人種隔離の南アフリカはどうなっていたか。
ダーバンでは、船が2-3日停泊することがわかっていたので、初めてのアフリカ大陸を見物することにした。
そこでは想像もしていなかった風景が待っていた。公園へ行くと、そこにはおきまりのベンチがある。そのベンチにはなにか標識が。(EUROPEAN ONLY)となっていた。レストランで食事をと行ってみると、入り口がWHITEとCOLOUREDが別々に。この国では、日本人は準白人のあつかいだそうだが、気色悪いものである。つぎはバスに乗ることに。2階建てバスだが、1階は白人用、2階は黒人用になっていた。1階の白人用はすいていて、ここにしようと思ったが、静かな視線を感じて、居心地が悪そうだ。2階の黒人用を試して見ようと思い、らせん状の階段を上って足を踏み入れた。すると込んでいた車内から、とたんに大きなざわめきが興り大騒ぎになった。大騒ぎが歓迎を意味することを察すると、空いていた椅子に座った。こういった人種差別の社会にあっても、黒人は持ち前の陽気さを失っていないのだ。



南アフリカ、ダーバンの市街地,、木陰で憩う。1962年撮影

観光用の現地ズルー族のパーフォーマンス 南アフリカ、ダーバン

観光用の現地ズルー族のパーフォーマンス 南アフリカ、ダーバン
時間がたっぷりあるので、列車に乗ってダーバンの内陸を見たくなり、駅のホームで待っていた。5-6両編成のジーゼル車が来た。
車両ごとに白人用、非白人用という風に区別されたものだった。
非白人用に乗り左写真の様な車窓の楽しみ、途中下車をした。
その郊外の村で、インド系の人に彼の家に、ぜひ泊まって行けとの誘いを受けて、1泊ならと受けることになった。
そこで、南京虫の洗礼を受けることになった。

1962年 筆者撮影。
南京虫(トコジラミ)に刺された後あとは、皮膚に赤い線状の斑点が出来、とても痒い。これは大変なことになった、急いで港に戻らなくてはならない。船に乗船するとそのまま医務室をたずねた。そこには若い日本人の看護婦さんがいて、懇切に治療をしてくれた。こういうことはよくあるとのことで、病気の説明と適切な処置で、心配を取り除いてくれ感謝の至り。

移民船乗客日本人グループとダーバンの人達。
筆者1962年撮影。

南アフリカ、ダーバンの市街地 筆者1962年撮影。
絶海の孤島の植民者たち
無人島であった2つの島を、過去の歴史をたどりを紹介しよう。
ひとつはインド洋、アフリカ大陸から200kmのモーリシアス島、もうひとつは南大西洋のトリスタンダクーニャ島である。
1962年の秋、ケープタウンを出航した移民船は、喜望峰を曲がったあたりで、潮の関係か大ゆれにゆれた。床に置かれていた酒の一升瓶が、倒れて転がった
トリスタン・ダ・クーニャ島

トリスタン・ダ・クーニャ島 トリスタ最初の発見者ポルトガルの航海士、1506年この火山島の命名者。
1806年英国植民地に併合,1810年最初の永住植民者。
2016年の住民293人。典型的な絶海に孤島である。

絶海の孤島からの避難民
ケープタウンを出て何日かすると、南大西洋の真っ只中にある絶海の孤島からの避難民を乗船させるとのアナウンスがあった。甲板に出てみると、急峻な火山島が、霧雨でどんよりとした海のかなたに姿を現した。島の名前はトリスタン・ダ・クーニャ島とのことであった。
しばらくすると、沖合いに停泊した本船に、ほぼ着の身着のままの島民であろう人達が船腹におろされた梯子から、船員に救助され甲板に上がってきた。
南半球の8月は冬の季節であり、皆の顔は蒼白だった。荒海の寒さと恐怖と孤独がにじみ出ていた。
みなヨーロッパ系のひとびとであり、今後リオデジャネイロで下船し、ヨーロッパの地へ向かうということだった。
1961年に火山の大爆発があり、全島民避難の勧告が出されていた。

