パリ散策録 1998

ユーロスターでパリへ

30年近く前、英仏間は連絡フェリーでドーバー海峡を渡ったのを思い出しながら、今は鉄路で結ばれたパリ・ロンドン間492kmを感慨深くユーロスターの振動にゆだねていた。

当時イギリス国内でユーロスターは在来線を走行し、始発着駅はウオータールー国際駅であった。この在来線区間はドーバー海峡(英仏海峡)手前のフォークストンまでは、秋田新幹線のように、三軌道方式であり速度が出せていなかった。理由は、当初イギリスは大陸と鉄道で結ばれることに消極的であり、新軌道(軌間1,435mm)新設の準備が遅れたためだった。

英仏海峡トンネルは、1994年に開通したので、筆者が利用したのは、開通4年後であった。新幹線が青函トンネル(54km)を走る8年前のことで、初海底トンネル走行であったので多いに感慨に浸ることが出来た。

ユーロスターは、海底トンネルを抜け、フランス側に入ると、みるみるスピードを上げだした。
まるで「開発途上国(失礼)から先進国に入ったな」といった印象を強くした。
パリに近づくにつれて、窓の外の田園地帯は濃霧に包まれてきた。
この気候だと運転席からは霧で視界が極めて悪いはずである。
それにもかかわらず、ユーロスターの運転手は減速させず、猛スピードの驀進であった。フランスの鉄道技術の凄さを実感した旅であった。

なを、フォークストン・ロンドン間は、2007年にイギリス国内部分の高速新線が開通となり、その間のノロノロ運転は解消され、フランス側と対等になった。

フランス国鉄 パリ北駅 
Paris-Nord  (Gare du Nord)

ユーロスターがパリ北駅に近づくにつれ、車窓の町並みがデジャブー感(既視感)「déjà vu」 になってきた。それもそのはず、筆者は30年前に、パリ18区の知人のアパルトマンに2週間ほど住み込んで、ヨーロッパ各地をパリ北駅を基点に行ったり来たりしていたのだった。

過去の思い出に浸っていると、ユーロスターはついにパリ北駅(Gare du Nord)に入線した。入国審査はイギリスサイドで済ましていたので、フランス入国の審査はなかった。便利になったものである!

フランス国鉄 パリ北駅(Paris-Nord Gare du Nord)に到着したユーロスター。

写真 筆者撮影 1998年

ヨーロッパの高速鉄道車両は、標準軌の在来線のプラットホームを併用しているので、車両出入り口床面とプラットホームに大きな段差があり、日本の新幹線とは、ここが違う。

写真 筆者撮影 1998年

停車中のタリス(Thalys)。
ユーロスターと同様、フランスのTGVを基本にしていて、電化方式の異なる区間を走行するため、様々な工夫が施されている。フランス・ベルギー・オランダ・ドイツを走る。最高時速300km。1996年より運転を開始した。                      

写真 筆者撮影 1998年

写真 筆者撮影 1998年

30年前には、この駅を基点に、ユーレイルパスの個室寝台に乗り、ブラッセル、ロッテルダム、アムステルダム、ボン、ケルン、ハンブルグ、リューベック、コペンハーゲン、ストックホルムなど、寝台個室4人席をホテルかわりにして(ホテル代節約のため)、往復を頻繁に繰り返した、なつかしの発着駅 Gare du Nord (パリ北駅)である。

また当時1960年代は、フランスから日本に帰国するルートとして、シベリア鉄道経由を使う旅行者が大多数で、この駅がその始発駅であった。

写真 筆者撮影 1998年

モンマルトル

パリの宿は、ここからは自費旅行なので、モンマルトルに程近く中級ホテルのイビス・パリ・モンマルトルに滞在した。

モンマルトル (Montmartre) は、パリ市内で一番高い標高130メートルの丘にある。イエズス会創設の端緒となった場所である。1534年のことで、同志は、イグナチオ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエル、など6人だたという。

モンマルトルへの一般旅行者は、サクレ・クール寺院のふもとからテルトル広場に至るのが通常のアクセスであるが、筆者は裏街道から行くことに決めていた。裏道とは下の地図のようなルートで、墓地や小さな農地そして芸術家たちの昔のアトリエや住まいなどをたどりながら、坂道を1キロほどゆっくりと登り、風景をたどり、そこにただよう同じ空気を吸うことであった。

モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ぶどう園と風車がシンボルであった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が、パリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。ピカソのキュービズムがここで生まれた。ゴッホも一時ここで絵を描いていた。

写真 筆者撮影 1998年

モンマルトルのMAISON CATHERINE

写真 筆者撮影 1998年

テルトル広場(Place du Tertreのカフェオレ

標高は約130メートル。
かつてのモンマルトル村の中心で、最初の村役場があった場所。

観光客の似顔絵を描いている画家達が集まっている。
モンマルトルがアーティストの中心だった時代を想起させる。

20世紀初頭には、多くの画家がこの地で暮らした。

日夜、多くの観光客がテルトル広場、サクレ・クール寺院、キャバレー・ラパン・アジル、ムーラン・ルージュ、ピカソらのアトリエ、ユトリロの描いた風景を訪ねて歩いている。

写真 筆者撮影 1998年

モンマルトルの坂道を登り、テルトル広場に出たが、朝早かったので人出はまだ少なかった。
とあるカフェに入ったが、そこも空いていた。
早速カフェオレとクロワサンを注文した。
この店で出てきたものは、超一流であり、それを言葉で表現するのは難しい。
一杯のコーヒーや一片のパンもおろそかにしない。
はりさすがに食の都パリと言うしかない。

写真 筆者撮影 1998年

サクレ・クール寺院
(Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre)

パリのランドマーク。モンマルトルの丘の上にあり、サクレ・クール寺院の白いドームは街中から見える。1876年から1912年にかけて普仏敗戦後、一般の寄付で建設された。

サクレ・クール寺院前の広場。

写真 筆者撮影 1998年

標高は約130メートルのサクレ・クール寺院前、高台テラスよりパリ市街を望む。

写真の右上に霞んで見える高層建築(高さ210m)は、トゥール・モンパルナスモンパルナス・タワー)、Tour Montparnasse, である。
1972年にモンパルナス駅の跡地に建設されたが、激しい景観論争を巻き起こし、以後パリ市内にこれを超える高層建築は、建てられなくなった。
こうした厳しい景観の規制により、今日のパリは成り立っている。

写真 筆者撮影 1998年

サクレ・クール寺院から階段で下の公園に下りると、丘の南麓からケーブルカーが上に通じている。入り口の屋根は透明ガラス製で、視界が遮られない様に配慮された造りになっていた。さすがパリ。

写真 筆者撮影 1998年

パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルの下側(南側)が飲み屋街に変わる原因となった。

19世紀末から、モンマルトルはデカダンな歓楽街となり、ムーラン・ルージュなどのキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台で活躍した。

モンマルトルの丘を下り、コンコルド広場まで4kmを歩いて行くことにした、行程は: ムーラン・ルージュ > Rue des Trois Frères  > オペラ座 > マダレーヌ教会 > Rue Royale > コンコルド広場 であった。(上地図)

ムーラン・ルージュ

歌やダンス、フレンチカンカン、大道芸を組み合わせたショーで有名。また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも有名である。
ここで活躍した著名なミュージシャンとしてはエルビス・プレスリー、フランク・シナトラなど多数いる。
モンマルトル界隈は、聖と俗が程よく共存した街区で筆者の好みに会っている。
また山の手と下町がうまく融合していて、パリの中でも面白い地区だ。

写真 筆者撮影 1998年

Rue des Trois Frères , パリ18区。地下鉄のレトロな看板がある。

写真 筆者撮影 1998年

BISTROT DU BOUCHER 暖炉の煙突 

写真中央の古い建物を見ると、暖炉の煙突はこの様に取り付けられているのが解ります。

写真 筆者撮影 1998年

Boutique Bernardaud

1863年創業、陶磁器、テーブル・ウエアーのブティック。 

写真 筆者撮影 1998年

Christofle

Christofle は、銀食器など金属製テーブルウエアーのブティック、1830年創業だ。9 Rue Royale, 

写真 筆者撮影 1998年

Boutique Maxim’s de Paris

1893年開業。1950年代に有名レストランになり、オナシス、マリア・カラス、などが顧客となった。
7 Rue Royale, パリ8区。

写真 筆者撮影 1998年

マダレーヌ教会(L’église de la Madeleine)

コンコルド広場よりふり返るとRue Royaleの突き当たりにマダレーヌ教会がある。

写真 筆者撮影 1998年

コンコルド広場とルーブル美術館を隔てる、フェンス。シンプルでセンスが良い。

写真 筆者撮影 1998年

ホテル デュ ルーブル

ホテル デュ ルーブルの周辺には、ルーブル美術館をはじめ、パレロワイヤル、コメディ フランセーズ、オペラ座など、花の都パリの魅力が集結した場所である。このランドマークに囲まれたロケーションに泊まり、時間を贅沢にゆっくり使った心地よい時間を過ごしたいものだ。

写真 筆者撮影 1998年

写真 筆者撮影 1998年

カルチエ・ラタン(ラテン地区)に舞い戻る。 

思い起こせば、この30年前はじめてパリを訪れた時は、1968年で筆者はまだ20代であった。当時はヨーロッパでは、学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起によるフランスの「五月危機」、チェコスロバキアの変革運動「プラハの春」の熱狂が冷めやらない時期であった。

パリ市内セーヌ川南岸、学生街カルチエ・ラタンにはバリケードが築かれ「解放区」が出現、鎮圧された直後であった。石畳の舗装された石をほじくり返し、それで警官隊と衝突した跡が、あちこちにあり、惨憺たる光景であった。

今回1998年のカルチエ・ラタン探索は、中世の匂いがする飲み屋が多くにぎやかな裏通りをひたすら歩き、筆者なりの定点観測とした。

中世のカルチエ・ラタン地区から近世のシャンゼリゼー通りへ
夜食をするためシャンゼリゼー通りへ移動した。これは正解であった。ふらりと直感で選び入ったビストロ店が、「アタリ」であったのだ。パリジャンが普通に食べるような定食とハウスワインを注文したが、子牛肉の揚げ物と赤ワインが絶妙の相性で、今でもこの一人飯は忘れることない。

写真 筆者撮影 1998年

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