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上海、蘇州 #1/6
1985
初めての中国、上海
以前シンガポールで、高級マンション設計の仕事をさせてもらった華僑の資産家の招待で、改革開放間もない上海を初めて訪れることになった。1978年当時、マカオから対岸の解放前の禁断の中国を、遠目に眺めて以来、上海行きが実現することとなった。日中平和友好条約が結ばれた7年後である。
入国ビザは香港で
1985年当時、インドネシアのスハルト政権は中国渡航を、政治的な理由で厳しく制限をしていた。シンガポールでは、隣国インドネシアへの遠慮から、シンガポールも自国民には中国渡航には、出国許可が必要で、制限を設けていたころであった。当時の中国のGDPが日本の3分の1以下であり、まだ貧しいままであり、いずれにせよ中国への渡航者はあまりいなかった。、当然、東南アジアから上海への直行便はない。香港乗継が唯一のルートであった。香港で数泊して、中国の出先機関である広東省公安庁から一ヶ月有効のビザを発行してもらい、上海には3月21日に入り27日に成田に帰国した。

上海空港
上海空港(現虹橋空港)に到着した。看板には「上海」とだけの表示である。国際線は閑散とした空港であった。日本航空のトライスター機がエアーブリッジに一機だけ横づけされていた。このアメリカのロッキード社が開発した3発ジェット旅客機は、当時の花形であり、東京ー香港ーシンガポール間でよく搭乗したものだ。1999年に上海浦東国際空港が開業し、その後この空港は現在上海虹橋国際空港となった。

1985年 筆者撮影
入国審査
上海での入国審査に関しては、以前の戒厳令下のバンコクや軍政下の韓国の空港を連想した。また1968 年当時に経験した、同じ共産国の緊迫したソ連のハバロフスク空港のように、人民解放軍の兵士が、うようよしていると思いきや、威圧感はなく拍子抜けするほど平穏であった。中国出入国は訪問者が少ないためもあってか、意外にもスムーズであった。

駐機場には日航機がただ一機!1985年 筆者撮影
化石のように残った上海旧租界地
戦前の上海旧租界は、あらゆるモダンなものに溢れ、誰でもハリウッド映画やジャズなどのアメリカ文化、テラスでカフェなどのフランス文化を、直接享受することができたとされる。
資料によれば、1928年6月に、中華民国の首都は北京市から南京市に移され、上海市はこの新首都を間近に控えて、繁栄の絶頂に至ったとされる。
国共内戦が終わり、1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、租界都市上海の歴史が閉じ、数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人・技術者・熟練工が、香港に渡って行った。その後、かつての租界都市上海は、1980年代末までは、ひたすら中央政府に利益を上納するばかりで、新規の投資は途絶えた。町並みは人口増の圧力によりスラム街化した。
1930年代の上海の最高潮であった街並みを、50年後の1985年に至っても、そっくりそのまま観察出来るのも、幸運といえば、あたっていると思う。

戦前の上海租界地図
化石のようにそびえる錦江飯店に泊まる
歴史を刻む「老錦江飯店」メインビルディングになるのが、1929年に建築されたイギリスゴシック式の錦江北楼(キャセイマンション)。
そしてもう一棟は、1934年に建てられたアールデコ様式のロビーが美しい錦江貴賓楼(グロヴェナー・マンション)。
いずれのビルからも租界時代の古きよき時代の残り香を感じるとることがでる。
いずれの建物もユダヤ系サッスーン財閥により建てられた。
隣の大きな敷地には、日本資本による花園飯店(オークラガーデンホテル)が、日本の大手ジェネコンにより、建設進行中。上海初の外資によるホテルプロジェクトである。新しい上海の起爆剤になるであろう。

錦江飯店とオークラガーデンホテルの工事現場 1985年 筆者撮影
錦江飯店貴賓楼
装飾を排した化粧レンガ張りの重厚なファサード。歴史と風格を感じさせ、とても渋く落ち着いた外観をかもしだしている。後で調べて解ったことだが、サッチャー英首相、レーガン米大統領、キューバのフィデロ・カストロもこの貴賓楼に泊まった。1972年日中国交回復のため訪中した田中角栄首相もここ貴賓楼に泊まった。
そんな超VIPが宿泊していたとは知る由も無く、この貴賓楼のバカ広い浴室を伴ったバカ広い客室に友人と相部屋で4泊したわけである。 ただし、ここに泊まった数日間、お湯はぬるま湯しか出ない。その上暖房は、旧型のスチーム式ヒーターなので部屋は充分に暖まらず、3月のまだ寒い上海の夜は体にこたえた。

1985年 筆者撮影
錦江飯店 貴賓楼一階入り口。
特徴あるアールデコ調の扉。

1985年 筆者撮影
錦江飯店北楼 Cathey Mansions
錦江北楼。13階建て旧キャセイマンション。サッスーン財閥により1929年に完成。垂直線を強調した英国ゴシック調で、当時の上海ではとても目立つ建物だっただろうことがうかがえる。
1949年以降ににいずれも共産党政府に接収され。

1985年 筆者撮影
唯一、チャイナドレスを着た女性をここで発見
街中で見る女性は、ほとんどが男と同じズボンの人民服系で、チャイナドレスはおろかスカート姿もみかけることはない。ここ錦江飯店の最上階の中華レストランに入ると、案内してくれたキャプテンの女性がチャイナドレスを着ていた。この当時、旧弊とされたこの服装はこのホテルのレストランのみ例外として許されているとの由だった。チャイナドレスの着用は、特別な許可が必要なそうな。

錦江飯店北楼1階入り口。1985年 筆者撮影
上海外灘
アヘン戦争終了後の1845年から、西欧列強は香港より本土の中心に近い、当時あまり注目されていなかった上海に、租界と呼ばれる外国人居留地を設けた。租界の雑多で自由な雰囲気は、のちに実業家や投資家のみならず、中国各地から犯罪者、難民、結社などを集めることになった。そしてアヘン、賭博、諸々の要素が重なり合って、魔都と呼ばれた上海が出来上がった。

1985年 筆者撮影
中山東一路の朝
通りに面して1920ー30年代に建てられた、重厚で威圧的ともいえる建築物が隙間なく、当時と変わりなく化石のように並んでいて壮観な通りです。

1985年 筆者撮影
表玄関で天秤棒
この上海の表玄関にあたるメインロードで、天秤棒を担ぎ重そうなものを運搬する一団に出会いました。後方には香港資本による上海初の事務所ビルが建築中である。

1985年 筆者撮影
1923年完工したネオクラシカル様式の香港上海銀行本店。上海外灘12番地日本の占領中は横浜正金銀行となり、1955年に上海市人民政府庁舎に。

旧横浜正金銀行 1985年 筆者撮影

旧横浜正金銀行 1985年 筆者撮影
1929年ゴールデンゲートホテル 1958年華僑飯店

1985年 筆者撮影
日清大楼 中山東一路5 旧日清汽船のビル

1985年 筆者撮影
1985年当時の上海海関ビル。
(1927に完工した)

1985年 筆者撮影
遊歩道の壷
上海の表玄関、外灘(中山東一路)。黄浦江に沿った幅広い1.5kmのすばらしい遊歩道。ゆったりとした散歩道だ。そのすばらしい遊歩道にタン壷が30mぐらいの間隔でおかれているのに気がついた。中を覗いてみると、すざましい数のタンが水の中に浮いていた。ほとんどの男たちはスモーカーであり、黄沙もあるし喉を痛めている人が多いようだ。
黄浦江沿いの遊歩道を楽しむ市民。

1985年 筆者撮影
和平飯店
錦江飯店と共に上海を代表する二大ホテルのひとつ和平飯店。金融街である中山東一路と商業・繁華街である南京東路との交差点、抜群の立地にある。
右に、和平飯店北楼 旧サッスーンハウス 外灘20号
左に、和平飯店南楼 旧パレスホテル 外灘19号

左、和平飯店南楼 右、和平飯店 真ん中に南京東路
和平飯店北楼、和平飯店南楼の間が南京東路で、上海一の商店街が形成されている。レトロな交通警察の手動信号塔がT字路に。

1985年 筆者撮影 左、和平飯店 中、中国銀行 右、旧横浜正金銀行

1985年 筆者撮影
南京東路に面した和平飯店南楼
このホテルの中にあるジャズバーが有名であることを教わった。「OLDJAZZBAR」という名前の通り、戦前からの熟年演奏者ばかりだそうだ。平均年齢はなんと80歳だそう。メンバーの中には、戦前の1940年代からジャズを演奏していた人もいるらしい。戦争や文化大革命など激動の歴史を経て、継続してジャズを演奏し続けてきたことに上海人の文化継承の心意気を感じる。

1985年 筆者撮影
南京東路に面した和平飯店南楼の正面入り口

1985年 筆者撮影
和平飯店南楼の窓枠。

1985年 筆者撮影
和平飯店南楼のファサード

1985年 筆者撮影
内部の検分
この和平飯店南楼には宿泊をしなかったが、許されて館内を見学することができた。

レセプション1985年 筆者撮影
このエレベーターは、かって手動のジャバラ引き戸であったであろう。この部分のステンレススチール、光っていてここだけが違和感を感じさせる。

エレベーター 1985年 筆者撮影
和平飯店南楼の階段。
1920年当時の最高級の木材が使われ、上海のよき時代の匠の技が細部に見て取る。

1985年 筆者撮影
ホテル中廊下、
客室のドア枠に何回にも上塗りされたニスが黒光りして、時代を感じさせる。

1985年 筆者撮影
かって世界と繋がっていた黄浦江を、和平飯店南楼の客室より見わたすことができる。対照的に何も無い空白の対岸浦東地区。今日の浦東地区には上海の超高層ビルが集積している。

1985年 筆者撮影
南京東路
上海一にぎやかな商業地、繁華街である南京東路から中山東一路方面を撮影。突き当たりに、和平飯店北楼、旧サッスーンハウスの青銅のとんがり帽子屋根が見える。
自家用車が見られなかった1985年の上海一の繁華街、南京東路の様子である。自転車とトロリーバスが庶民の足であった。道路に面する飲食店や百貨店は、ほとんど国営ないしは公営で、民営のサービスは存在せず、レジでは客におつりを投げ返すようなありさまであった。
1990年になって、地下鉄2号線(東西線)がこの大通りの下に開業して、虹橋空港と新しい浦東空港とが結ばれ、インフラがようやく整うはるか前の写真である。

1985年3月26日撮影 筆者撮影
人民服の人の群れ
上海の目抜き通り、南京東路を行き交う人々。ほとんどが人民服を着ている。車を見かけない。遠方に庶民の足のトローリーバス。

1985年 筆者撮影