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ヨーロッパ周遊
4ヶ月 #2/9
1968年
ユーレイルパス EURAIL PASS
ユーレイルパスは、ヨーロッパ諸国以外の外国人に対し発行される一定期間鉄道乗り放題の周遊券。連続使用とは使い始めの日から使い終わりの日まで、有効期間内の毎日乗車できるパスです。
ブラジル・サンパウロの旅行代理店を訪れ、ユーレイルパスの存在を知り、迷うことなく 3ヶ月有効のユーレイルパスを購入した。外国人には、コンパートメントがある一等車両があてがわれた。これでヨーロッパ周遊の足代が前払いで確保出来た。
筆者の旅行計画は次の様に企画。
ユーレイルパスを移動の手段のみならず、夜行の国際列車のコンパートメントがある一等車をホテルとして使うこと。それによりヨーロッパ周遊の宿泊代を無料とすること。ユーレイルパスの前払いで、ヨーロッパ周遊のホテル代金も同時に確保出来たわけだった。
この方法を具体的に説明すると次の様になる。たとえば、パリで終日見物し、夕刻にパリ東駅(Gare de l’Est)に ”チェックイン”、翌朝ミラノ中央駅で ”チェックアウト”。これにより宿を捜す時間と宿泊費用の両方が節約出来る。
夜行の国際列車内には、食堂・トイレがあり、一等コンパートメントは革張りの四人席、一人だけの場合が多いので充分なプライバシーがあるのでまさに動くホテルと言って良い。
当時のヨーロッパは新幹線に相当する高速鉄道がまだ出現する以前の時代であったので、この離れ業が有効であった。
この様な旅行システムを考案し実行に移した移動ルートを地図に落として記録したのが、下のイラストである。
赤丸は訪れた都市。最南端はスペインのマラガ、最北端はノルーエーのナルビク。青丸は後になって訪れた都市。

1968年鉄道の旅・ユーレイルパスをフル活用。 ルート・赤線で示す。
訪れた國際列車の全ルート。合計26ルート制覇。
青丸・英国1998年、ギリシャ2014年
イラスト筆者作成。
7月28日 リスボン発09;45 マドリッド着19;00
マドリッド
マドリッド・ペンション泊。
マドリッドでスペイン語勉強中のシリア人と友人に。
7月29日 マドリッド。両替20ドル。
プラド美術館。JAL 川島氏訪問(昼食2-5時)、Waldy氏訪問夕食。
シエスタと夜のメインストリート
マドリッドは、イベリア半島の中心にあり大陸性気候なので、夏の真昼は極めて暑い。真昼の2時間は食後のシエスタの時間で、街中心地の商店は皆シャッターを下ろした状態になっている。
その代わりに夜になると気温が急に下がりだし、街が賑やかになり、その結果、店が閉まるのが2時間遅くなる。11時になっても、沢山のきれいな若い女性達がグラン・ビア(Gran Via)繁華街(東京で言えば銀座通り)を楽しそうに闊歩している。
アルカラ通り、Calle de Alcala マドリード中心市街地

1968年 筆者撮影

1968年 筆者撮影
マドリード中心市街地

1968年 筆者撮影
7月30日 マドリッド、San Fernando教会、Placa Mayor、王宮などをおとずれる。Waldy氏を訪問しレオ西川のプレゼントを渡す。
エル・エスコリアル修道院
ユネスコ世界遺産
7月31日 エル・エスコリアルへ。13;35アトーチャ駅発、16;50エル・エスコリアル着。スイス人でスペインに長く住んでいる人に会う。 20;00 マドリッド北駅着。
エスコリアルは 王宮、修道院、図書館、博物館の複合施設。1563年から1584年にかけて建造された。首都の北西45kmに位置し、鉄道で往復することができる。旅行者はマドリッドから日帰りで訪れることが多い。
左右対称の幾何学的な設計で、外観は装飾を極力排除したシンプルな様式の建造物。ここを訪れると、当時の学問と信仰の厳格な雰囲気が凛とした空気を通して伝わってくる。

エル・エスコリアル修道院 1968年7月31日 筆者撮影
ここは、5世紀の間、スペイン国王の埋葬場所でもあった。

エル・エスコリアル修道院 1968年7月31日 筆者撮影

エル・エスコリアル修道院 1968年7月31日 筆者撮影
マドリードのターミナル駅にて。
マドリッドとエル・エスコリアルの見学を終えて、マドリッドの中央駅からパリに向かうことになった。駅は、ヨーロッパの大都市では普通である櫛型のターミナル駅で、たくさんの行き先があり、駅内放送は行き先をスペイン語で(英語はなし)アナウンスしていた。スペイン語は南米大陸全域(ブラジルを除く)で話される国際語なので、自国語に誇りがあり英語を特別なものとは思っていない。
駅の広い構内には、アメリカから来ている数組の学生のグループがたむろしていて、スペイン語が分からず行き先のプラットホームが分からず困って右往左往しているようだった。筆者はブラジルでポルトガル語を通常の言葉として使っていたので、ポルトガル語の親戚の様なラテン系言語であるスペイン語は聞き取ることが出来る。学生たちに通訳して行き先のホーム番号を教えてあげ、喜ばれ感謝された。(周りの地元の人たちはほとんど英語を話さないので、助けの手を差し伸べることが出来ない)
筆者もパリを目指して車中のひととなった。スペインとフランスの国境近くのバスク地方の国境駅に着くと列車を乗換なければならないという。理由は両国の軌道幅が違うので列車は直行できない。
筆者も重い荷物をひきずりフランス側に待機していた列車に移った。車内の網棚はかなり高い位置にあり、20キロを超えるトランクを網棚に上げる事が出来ない。(フランス人の身長はスペイン人のそれより平均的に高い)通りかかった乗務員に持ち上げを頼んだが、一言で拒絶反応。(フランスの鉄道員は国家公務員)見かねた付近の乗客が助けてくれたが。。。。
マドリッド>列車中泊①>パリ
パリに到着
1968年8月1日 パリに着く
8月1日 パリ モンパルナス駅に到着 19;00着。
すぐに地下鉄に乗り換えブラジル・サンパウロで知り合った香月氏の住まむパスツール街(パリ15区)へ。道路、住所番号がブラジルと逆なので、かんちがいであやうく香月氏の住まいを見逃すところであった。会えてよかった。
地下鉄パストゥール駅(6、12号線)の近くには、その名称の由来となったパストゥール研究所がある。15区は、市の南西部に位置して、セーヌ川の南岸に面している。15区は在仏邦人が比較的多く住むところだそうだ。
パストゥール街の友人宅に、予定した通り居候となった。
このアパルトマンには、パリで働いてる若い日本人が頻繁に出入りしていて、憧れていたパリで「異国、異文化の中でノイローゼになりそうだ」という深刻な話を頻繁に聞くこととなった。
モンパルナス界隈は、モンマルトルと並んでピカソやマティス、モディリアーニなどのエコール・ド・パリの画家たちがアトリエを構えた場所。
セーヌ川北岸からエッフェル塔を望む。

1968年8月 筆者撮影
8月2日 パリ。両替50ドル。
左岸の5区は、ソルボンヌ大学をはじめとする名門校が立ち並ぶ学生の街で、カルチェ・ラタンと呼ばれている。
ノートルダム、エトワール凱旋門、シャンゼリゼー(日本人多し)、ソルボンヌ大学、パンテオン、ルクセンブルグ公園、サクレクール。雨になり帰る。
8月3日 パリ。午前中、トモシゲとザニーニへの手紙の配達で時間をとる。午後、モンパルナス、サクレクール、シテ。夜、サンミシェル通りで飲む。
8月4日 パリ ユネスコ、フランソアの家をおとずれるも休暇で留守。午後今後の方針を考える。
フランスの五月革命
筆者がパリを訪れたのは、偶然にフランスの五月革命が起きた2か月後のことであったことを知る。五月革命とは、学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と異議申し立て運動、それに伴う政府の政策転換を指す。
その遠因は、アメリカでは泥沼化したベトナムに対する反戦運動、中国では文化大革命、日本ではその後の全共闘、東大紛争、ヒッピームーブメントが世界の若者に飛び火していった時代であった。
抗議する学生たちの投石の跡
左岸の5区は、ソルボンヌ大学をはじめとする名門校が立ち並ぶ学生の街で、カルチェ・ラタン(ラテン地区)と呼ばれている。
カルチエ・ラタンへ行ってみたら石畳の舗装された道路がメチャクチャになっていた。あきらかに石畳の舗装ブロックが広範囲でほじくりかえされてなくなっている。学生や民衆が石畳のブロック石をほじくり返し、当局と激しい衝突がおき反撃した跡であることが自明だった。
このカルチエ・ラタンの投石の跡は当時のパリの雰囲気を伝えていた。
ここパリに来て、筆者も8年前の東京で、当時の時代の学生運動の雰囲気で安保闘争に加わったことをおもいだしていた。
鉄のカーテン
当時はヨーロッパ民主主義国家とソ連が統率する共産主義のワルシャワ条約機構国家の間は自由に行き来が出来ない厳とした国境線で隔てられていた。
これを鉄のカーテンと呼んでいた。
下のイラストにあるようにヨーロッパ大陸の東半分は越えられない鉄のカーテンの彼方にあったことになる。
パリに着いた20日後、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロバキア全土を占領下に置いた。

鉄のカーテン 筆者作図
8月5日 パリ。10;47発、ドーバー海峡を船で渡る。
イギリス海峡フェリー航路

フランスとイギリスを結ぶフェリー航路で、フランス・カレーからイギリス海峡を横断し、イギリス側ドーバーに上陸。当時、たった約34キロメートルしか離れていないドーバー海峡には、両国を結ぶ海底トンネルはなく、不便であった。

ドーバーからロンドン・ビクトリア駅にいたる郊外の街並み。
イギリスはフランスに比べわびしい感じ。

1968年8月5日 筆者撮影
ロンドン
ロンドン中心街。雨の中、沢山の2階建てバスが列をなす

1968年8月5日 筆者撮影
ロンドン。17;58着。
トラファルガルスケアーにたくさんのミニスカートの女の子たち。
2晩ホテル見つからず。
いつも大勢の観光客で賑わうトラファルガー広場。
その北側にある、古代ギリシャの神殿を彷彿させる建物がナショナル・ギャラリー。(写真下)
ダ・ビンチにゴッホ、モネなど、1250年から1900年代にかけてのヨーロッパの一流画家らの手による絵画が、描かれた年代別に展示されています

トラファルガー広場, 1968年8月5日 筆者撮影
てっぺんには1805年トラファルガーの海戦でナポレオン1世率いるフランス軍を破り、本土上陸を阻止した英国の英雄であるネルソン提督の像が置かれている。
噴水の周りは、市民や恋人たちのミーティングポイントになっていて、階段に腰掛けて、人待ちをしている若い女性が沢山いて、沢山の顔が下から一望できる。ここで落ち合ったカップルは、ロンドンきっての繁華街「ピカデリーサーカス」へ歩き、さらにオックスフォードストリートなど、ファッションブティックが集中するエリアに至る。
8月6日 ロンドン。
原田氏訪問昼食、在ロンドン・ブラジル大使館訪問。ロンドンの地下鉄と郊外の衛星都市は大規模だ。
ロンドン・ビクトリア駅22;00発。
8月7日 6;15フランス・リ-ル着、両替50ドル。カフェ。乗り換え 7;22リ-ル発。
8;45ブラッセル見物。13;35パリ北駅発。15;22ロッテルダム着。ペンシオンに泊まる(7ギルダー)。黒人(スリナム人)多し。
ブラッセル・グランプラス広場, ユネスコ世界遺産
グランプラスは様々なギルド(職業集団)の建物に囲まれ、各ギルド・ハウスの正面は、同じデザインは一つもなく各々が独自の職業をあらわしたファッサードををもつ。異なる建物が競い合い、その総合集団がまとまりを構成し、全体の雰囲気を作り出している。多様性を認め合った造形美の成功例だ。

ブラッセル・ランプラス広場, 1968年8月7日 筆者撮影
ブラッセルの街角の建築現場
ブラッセルの街角を歩いていると建築現場に遭遇した。
ビルのファッサードは、工場であらかじめ造られたプレカストコンクリートが採用されている。この当時としては、先進的な工法だ。

1968年8月8日 筆者撮影

1968年8月8日 筆者撮影
8月8日
ロッテルダム発15;22、アムステルダム着16;23、アムステルダム発20;31
アムステルダムの小さな広場

1968年8月8日 筆者撮影
8月8日アムステルダム20;31発>列車中泊②>8月9日ルツェン
8月9日ルツェン8;01(雨) ルツェルン発9;41、ベルン発13;21、Thun19;29 発。