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ヨーロッパ周遊
4ヶ月 #1/9
1968年
1968年7月ブラジル・サントス出港まで二週間の日記
7月1日 4;30 事務所、伊東に電話、佐々木に電話ロンドリーナ終わらせる。
7月2日 フィンランド領事館、荷物の整理、ドルへの両替。
7月3日 日本領事館(訪問追加国願い)、買い物、荷物の整理
7月5日 日本領事館、ニッポンツール旅行代理店。
7月6日 カマダ氏と朝食、トモシゲ氏訪問。
サンパウロ滞在中、いろいろなアドバイス、勇気を与えてくれた日系2世の建築家、カマダ・セツオ氏の事務所に、お別れの挨拶に訪れた。その後アパートで部屋を一時共同で借りていたこともあった旧友である北海道出身の前衛画家、トモシゲ(楠野友繁氏)にも挨拶に行き別れを告げた。
7月8日 天然痘予防注射、伊東氏、シュトロイター氏、高井氏。
シュトロイター氏はサンパウロ在住ユダヤ系のブラジル人(東大の留学生)。筆者が日本出国前に東京で、ブラジルの最新事情と就職の可能性など様々なアドバイスをいただいた。その後6年後にブラジルを去るにあたり、サンパウロの自宅にお礼を込めて訪れ、お別れの挨拶とした。
7月9日 19;00 サンパウロ発。バス車中泊。
7月10日 13;30 ブラジリア着、
7月11日 ブラジリア発19;00 アナポリス着22;30、バス車中泊。
7月12日 アナポリス発8;00、ゴイアニア着9;00、ゴイアニア発16;30、アナポリス着17;30。
7月15日 9;45 サントス税関、伊東夫妻と昼食、有賀夫妻船に、立間君も来る。
何人かの友人夫妻や知人達が、標高750ⅿのサンパウロからツズラ坂の高速道路を降り、サントス港まで見送りに来てくれた。まだ若い頃だったので、ブラジルに再来する機会は可能性としてあるだろうと思い、6年前に横浜港を出港した時の様なセンチメンタルな気分とは異なった大西洋への船出となった。
1968年7月15日 19;00 サントス港出航。
クルーズ船は南米とヨーロッパを結ぶフランス船である。ブエノスアイレスを起点とし、終点はオランダのロッテルダム。大西洋を介して二つの大陸間を結んでいた。
サンパウロ滞在4年目で、車で遠征中、命にかかわる大事故を起こした。車を売却してその資金を帰国に充てる目論見が外れ、さらに2年間資金を貯め、2年遅れのヨーロッパ周遊のプランを実行することになった。
空路か海路か
さて、ブラジルからヨーロッパへ限られた予算の中でどうやって渡るか?方法は二つ、空路か?海路か?サンパウロの旅行代理店で調べたところ、海路が空路の4分の3の費用で済む事が分かった。若くて独身で時間は沢山有り、船は食事込みのホテルになるので海路に決定。1968年当時は如何に航空運賃が高かったがこれでわかる。
サントス⇒リスボン

大西洋横断 11日間の航路 1968年7月
リスボンまで大西洋横断、クルーズ船中9泊。
船室の様子
予約したのは2等船室。2段ベッドが壁際にふたつ並んでいて、トイレとシャワーブースが完備されていた。清潔な船室であり湯水の調子も良好。この船室に計4人(ブラジル青年3人と日本人1人)で10日間一緒に過ごすことになった。
7月16日 早朝リオデジャネイロ着。
風邪にかかったらしい。Antigrippen の錠剤のむ。午後、バスで Cosme Velho、 市電トラムでコルコバードの丘へ。すばらしい眺め。流石に世界3大美港のひとつ。

世界3大美港の一つである リオデジャネイロ
1968年7月16日22;00 リオ出航、さらばブラジル!
いろいろな経験をさせてくれた美しくダイナミックな国ブラジルよ、さようなら。
7月17日 風邪と歯茎の腫れで熱があり具合が悪い。
7月18日 病気快方にむかう。フランス映画 La 10eme Victime.
7月19日 Courses de Chevoux au Bar
フェルナンド・デ・ノローニャ
大西洋に浮かぶ絶海の孤島
リオデジャネイロを出て南大西洋の外洋に出て2昼夜ほど解放感を味わっていると、突然遠方に絶海の孤島が出現 !! 岩礁に巨大な波しぶきが襲っているのが見えてきた。強烈な自然現象である。

FERNANDO DE NORONHA

フェルナンド デ ノローニャ
船内の雰囲気
このフランスの会社が運営する外洋船(オーシャンライナー)は、船長をはじめ乗務員は、ほとんどがフランス人。乗客はアルゼンチン人とブラジルの混成であり、アフリカ系国人は少なく、東洋人は筆者のみであった。
船内の広いラウンジには生演奏の楽団がいて、ブラジル人はサンバ・ボッサノーバ、アルゼンチン人はタンゴのリクエスト。お互いに演曲の激しい取り合いになっていた。南米ではこの両国の文化的な対抗意識がとても強いのが目の前で展開されていて、微笑ましい光景だった。
バーカウンターの中には数人のフランス人のギャルソン(バーテンダー)がいてフランス語で免税のフランスワインやカクテルの注文をこなしていた。いづれも若いイケメンたちで、ラテンアメリカ系の女性にもてていて人気者になっていた。
7月19日 赤道祭
船長主催の洋上最大のイベント。乗客全員が仮装での参加が求められることに。筆者はサムライの仮装をしてみようと思ったが衣装がないので、腰巻一つで済むブラジル・インデオの仮装で参加。<大西洋の船上に突然ブラジルの先住民が現われた>と言う想定だった。その後、翌朝2時までダンスしたりおしゃべりした後で、プールで泳ぐ。こうしている間にクルーズ船は粛々と北半球に進入して行く。
カナリア諸島に入港
リオデジャネイロを出港して7日目にアフリカ大陸の西、モロッコ沖にあるカナリア諸島に到着。テネリフェ島のサンタクルスに入港した。カナリア諸島はスペイン領、免税の島だ。下船して驚いたことは、特に.北欧諸国を含めてヨーロッパの各国のスペイン・ペセタ両替屋さんが至るところにあったことだった。つまりこの島は既に自由港の先端を行っていて、特に北欧諸国の裕福な人々の旅行先天国だったのだ。
ブラジル出港前に、ヨーロッパ旅行費用の足しにしようと、6年前に香港で購入した中古のカメラを売り払った。テネリフェ島のサンタクルスの街角でカメラ屋さんを見つけたので入ってみると最新の日本製のカメラがあった。そこで迷うことなくアサヒペンタックスを購入した。値段はブラジルで手放した中古カメラより若干安かった。
港湾近くを散策していると、遠洋漁業の日本船が停泊している。地球の果て(日本がら見れば)の裕福な人達の国際リゾート地で、漁業の仕事で来ている同胞のことを思った。船には日章旗が高々と掲げられ、青い空になびいていた。どうしたわけか感動で涙がこぼれてきた。

テネリフェ島のサンタクルス港

リスボンに上陸
ユーラシア大陸最西端のポルトガル・リスボン港に着いた。船旅が終わり、ここから陸上の旅になる。
トラベラーズチェック
今回のヨーロッパ諸国周遊計画に関して、まだクレジットカードのない時代、唯一の方法はドル建てのトラベラーズチェックを発行してもらい、それを持ち歩くことであった。その発行者はアメリカンエクスプレス一択であり、ブラジルの通貨クルゼイロ(当時)のすべてをアメリカドルに換えサンパウロの銀行でドル建てのトラベラーズチェックを発行してもらった。
さて、そのトラベラーズチェックを初めて使用し、ポルトガルの通貨エスクードに両替。
7月26日 リスボン着。両替10ドル。
BAIRRO ALTO (上ノ町) リスボンの山の手
リスボンの宿(ペンション)をどの様に探し当てたかは記憶の彼方に消えてしまったが、その宿の場所は大成功のアタリであった。下の写真がリスボン下町都心の西側。山の手のペンションからのリスボンの街並みを展望した光景である。

ペンションの窓から南西方向を眺望。テジョ川とそこに架かる吊り橋、4月25日橋(Ponte 25 de Abril)が見える。
1968年7月 筆者撮影
バスコダガマとカブラル
このペンションの窓から眺めたテジョ川に面した広場(写真下)から、バスコダガマ達が喜望峰を回りアジアに到達する。
後になって、カブラル(ポルトガル王国の貴族、軍人、航海探検者)が南米大陸を発見、ブラジルに初上陸。国土面積9万2000㎞2 のポルトガル(日本の4分の1の面積)が、ポルトガルの面積約90倍に相当するブラジル(851万2000km2)を征服した。カブラルはヨーロッパ人として初めて4大陸(ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、アジア)を踏破した探検家となった。

ペンションの窓から南東方向を眺望。 左側テジョ川に面した広場は「Placa do Comercio」この広場からバスコダガマは航海に出て喜望岬を越えてインド洋に出た。
1968年7月 筆者撮影
リスボンのペンションでの出来事
絶景のペンション宿での朝、ベッドシートの交換、掃除のおばさんが部屋に入ってきた。朝の気分は絶好で、軽い挨拶と会話をしたところ、彼女は腰が抜けんばかりの驚いた表情を示したので、逆にこちら側が驚く番になった。
しばらくしてから冷静になり、その理由がわかった。僕はブラジルで通常にそうしていた様に、ポルトがル語で話しかけていたのだった。彼女は日本人がいきなりまさかの自国語で話しかけて来るとは想像も出来なかったに違いない。
欧州の最西端に位置する、当時のポルトガルには、アジア方面からの旅行者は極めてまれで、ブラジルにいた日本人が大西洋側の玄関口からいきなりリスボンに入ってくるなんて想像を絶する出来事だったのであろう。

ペンションの窓から西方向の街並み。みわたすかぎり年代物の赤い瓦が連なる
1968年7月 筆者撮影
アルファマ地区(Alfama)
アルファマはリスボンの旧市街、歴史的に重要な地区である。テジョ川とサン・ジョルジェ城との間の丘陵地区にある。名前の由来はアラビア語の AL HAMMA、「泉」もしくは「風呂」を意味するという。

リスボン中心市街地、下の町からみあげたアラファマ地区。丘陵の頂にサン・ジョルジュ要塞。
1968年7月 筆者撮影
アルファマの坂道、トラム、そして ファード
アルファマは回教徒ムーア人支配時代、リスボン市の中心地であり、漁師と貧民が多く住んでいたという。アルファマは1755年のリスボン大地震で被害を受けず、急峻な坂道、狭い路地の迷路と小さな広場という、絵になるような光景が残った。またポルトガルの演歌「ファード」酒場やレストランも多い。アルファマ発祥と言われるファードは、航海に出ていった男たちを追想するポルトガル独特の音楽で、後になってブラジルに伝わり、サンバやボッサノーバの基になった。

アラファマ地区の曲がりくねった急坂の道路。このアラファマ地区市民は毎日この坂を上り下りして生活をしている。
1968年7月 筆者撮影
アルファマは市内最古のリスボン大聖堂(12世紀から14世紀)、グラサ修道院(18世紀)などの歴史的な建造物が集積した地区でもある。アラファマ地区の曲がりくねった急坂の道路に2条の市電鉄路。市電トラムは建物軒先スレスレに急坂を上り下りし、スリル感を味わえるリスボン屈指の地区。

アラファマ地区の曲がりくねった急坂の道路に2条の市電鉄路。
市電トラムは建物軒先スレスレに急坂を上り下りし、スリル感を味わえるリスボン屈指の地区。1968年7月 筆者撮影
バイーシャ地区 BAIRRO BAIXA
BAIRRO ALTO (上ノ町)とアルファマ地区台地の間にある平らな地域.BAIRRO BAIX(下ノ町)。
テジョ川に面したコルメシオ広場(ポルトガルの海外植民地とヨーロッパ諸国をつなぐ貿易を取り締まっていた)からロシオ広場(現在の陸上交通の接点)一帯の低地のことを指す。「バイシャ」とは“低地”という意味で、凱旋門やカフェ・レストラン・お土産屋さんなどが立ち並ぶ。坂道の多いリスボンとしては、貴重な平地であり徒歩での移動が容易で快適である。
東側にアルファマ地区の丘陵と丘陵の頂にサン・ジョルジュ要塞。西側にBAIRRO ALTO (上ノ町)の丘陵が至近距離に眺められ、この街を3次元的・立体的に把握することができる。ヨーロッパの都市の中でも第一級・ユニークな都市景観を有していると言って良い。
1755年のリスボン大地震
マグニチュード8.5~9.0相当、欧州史上最大の自然災害.
ポルトガルの西南西200kmの大西洋を震源とする、東日本大震災級の巨大な地震が発生。大航海時代に隆盛を極めたポルトガルの首都・リスボン・バイーシャ地区の被害が特に大きかったと言われる。最大30mもの高さの津波、6日間続いた火災の影響などで、死者90,000人、当時のリスボン市内の85%ともいわれる建物倒壊の被害を出した。
その後バイーシャ地区は、碁盤の目状に都市整備がなされたが、大地震のダメージはジワジワとポルトガル経済の体力を奪い、産業は空洞化し、現在に至る「失われた250年」の長期衰退の道を歩むことになる。
バイーシャ地区からは、西側にBAIRRO ALTO(上ノ町)の丘陵が至近距離に眺められる。
リスボン市内にに張り巡らされたトラム鉄路は、ここバイーシャ地区が起点・終点になっている。

バイーシャ地区からは、西側にBAIRRO ALTO(上ノ町)の丘陵が至近距離に眺められる。
リスボン市内にに張り巡らされたトラム鉄路は、ここバイーシャ地区が起点・終点になっている、1968年7月 筆者撮影
ロシオ広場付近の建物。この近くに欧州最西端の鉄道ターミナル駅がある。
ここから国際列車に乗ると、欧州各都市に達することが出来る。

1968年7月 筆者撮影
山の手の公共広場。新婚さん。

1968年7月 筆者撮影
7月27日 リスボン Av. Liverdade, Monas. Sao Jelonimo, Castelo de Belem, Estorial
ジェロニモス 大聖堂・修道院
ユネスコ世界文化遺産
マヌエル様式の最大にして最高の傑作といわれる大聖堂・修道院。大航海時代の富をつぎ込んで建築された。その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われた。
この建造物はマヌエル1世によりバスコダガマやエンリケ航海王子の偉業を称え、1502年に着工された。1511年に回廊など大部分が完成したものの、最終的な完成には300年ほどかかっているという。
奇跡的に1755年のリスボン大地震で崩壊せず残った建築物が世界遺産ジェロニモ大聖堂・修道院である。16世紀初頭に優れた耐震構造技術で建てられ、今でも存在していることが奇跡なようだと思える。

ジェロニモス 大聖堂・修道院と前面広場
1968年7月 筆者撮影
ジェロニモス 大聖堂の正面入り口門

1968年7月 筆者撮影
ジェロニモス 大聖堂の正面入り口門の彫刻

1968年7月 筆者撮影
ジェロニモス 大聖堂に繋がっている中庭があった。

1968年7月 筆者撮影
大聖堂に繋がっている中庭があった。
中庭を囲む回廊の柱のサイズに注目。
当時の耐震設計!!

1968年7月 筆者
ベレムの塔
ユネスコ世界文化遺産
リスボンの市域の一部、テジョ川に面し、船の船の出入りを監視する目的の要塞。16世紀、にマヌエル一世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られた。建築様式は前出のジェロニモス修道院と同じくマヌエル様式である。監視塔のひさしがロープの綯い目で表現されているのがこの様式の特徴。

ベレムの塔、1968年7月 筆者
エストリル (Estoril)
リスボンの東側郊外にある。過っての王族に好まれた大西洋岸の保養地。今でも古城が左側にあり、その風格を残している。カジノもある。限られた予算で旅するビンボー旅行者にはそぐわない観光地であった。

エストリル。大西洋岸の保養地。
1968年7月 筆者撮影