ホーチミン・ベトナム 1989

ホーチミン・ベトナム 1989

初めてのホーチーミンシティー

1989

シンガポール在住で、20年にわたり日本料理店を経営している知人と、ベトナムを訪れる機会を得た。まず入国ビザの取得であるが、バンコクのベトナム大使館で申請すれば、早く手に入るとのことで、バンコクに向かった。

バンコク上空。

 1989年 筆者撮影

バンコクでベトナム入国のビザを申請、獲得

バンコクに着いた日に、大使館でベトナム入国のビザを申請し、一泊の後パスポートを取りに行きホーチーミンシティーに向かった。

バンコク・ドンムアン空港の到着出口。 1989年 筆者撮影

軍用飛行場の面影が残るホーチーミンの空港

ホーチーミン市上空で、着陸態勢になり、飛行場の滑走路が見えてきた。滑走路のすぐ脇には、旧米軍が残したであろう戦闘機の格納庫のカマボコ状の建物、そして石油タンクなどが連なっていた。あたかも現役軍用飛行場の様な異様な光景であった。

長いベトナム戦争の後、まさかのサイゴン陥落が1975年にあり、アメリカに支えられていた南ベトナムが、まるごと共産国になった。その後、ベトナム共産軍のカンボジア侵攻で戦争が続き、1979年には中越戦争まで起きている。

ベトナム上空 1989年 筆者撮影

共産圏物産専門の日本の商社

空港では、共産圏物産を専門に扱う日本の商社のホーチーミン市駐在の人に、先導してもらい、彼の会社の車で街の中心部に向かった。
初めて共産圏専門商社というのが存在することを知った。確かにまさしく「共産国」に入国したのだった。

ベトナム・ホーチーミン空港の到着出口。
1989年 筆者撮影

東洋のパリと呼ばれたサイゴン

フランス植民地時代のサイゴンは、計画的に広い街路と公園が配備され、東洋のパリとよばれ、バンコクと同格の繁栄した都市だったそうである。
我々が訪れた1989年には、比較にならないほど両都市の格差が出来ていた。
まだ、ソ連製や共産圏の古い車や、トラックが街中で多く走っている。

空港から市街地に向かう道路
1989年 筆者撮影

この乗車中の車は日本製、そしてソニーのカーオーディオが付いているが、窓の外の車は共産国製がほとんどであった。

 1989年 筆者撮影

サイゴンが陥落し、ベトナムが社会主義国として統一された後にも、カンボジア侵攻、中越戦争などが続き、疲弊した経済の建て直しが更に遅れていた。

1989年、我々が訪れたころになっても、街には子供の負傷者や浮浪者が溢れていて、悲惨な戦争の傷跡を、街角で何度も繰り返し遭遇することとなった。1986年になってベトナムは、ドイモイ政策(資本主義の自由な要素を取り入れた刷新スローガン)に舵をきることになるが、その効果があらわれっるのは1990年代になってからになる。

写真下、目抜き通りにポツンと残された植民地時代の建物。

 1989年 筆者撮影

マジェスティックホテル・サイゴン

フランス植民地時代の1925年に、洋風コロニアルスタイルのさきがけとして開業した、由緒あるホテル。
1975年のベトナム戦争サイゴン陥落により、名称がチューロンホテルにあらためられた。1989年に筆者たちがチェックインしたころは、まだこの名称のままで、歴史あるマジェスティックホテルとの認識もなく、落ちぶれたホテルの印象だけが残った。

ロケーション的には、サイゴン一区の主要街路であるドンコイ通りが、サイゴン河に突き当たる角の一等地にある。

下の写真がマジェスティックホテルのチェックインカウンター周りである。1980年代の終わりごろの東南アジアの主要都市では、観光産業が興隆し、すでに沢山の現代的なホテルが出現していたが、このホーチーミンシティーは、まだその足掛かりさえも見つけられずにいた。

チューロンホテル(旧マジェスティックホテル)の薄暗いチェックインカウンター

 1989年 筆者撮影

チューロンホテル(旧マジェスティックホテル)の薄暗いロビーラウンジ。

 1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

アオザイをまとった、レセプションのベトナム女性。スタイルが抜群だ。

 1989年 筆者撮影

客室

スマートなアオザイ衣装と対照的な、重苦しい内装、そして強すぎる壁の色彩。1,2泊なら耐えられるが、長期滞在は無理な部屋である。

 1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

テレビの上にアンテナがある。

 1989年 筆者撮影

庭に面した廊下より客室の採光が採られている。
廊下を他のゲストが通ると、人影が写るので、落ち着かない。

旧チューロンホテル(マジェスティックホテル)の中庭。
1階のパテオには機械類が雑然とおかれている。

 1989年 筆者撮影

旧チューロンホテル(マジェスティックホテル)の中庭

 1989年 筆者撮影

戦争報道とマジェススティックホテル

ベトナム戦争中は、ジャーナリストとして開高健や近藤鉱一が、このホテルを使用し、日本に記事を送っていたことが良く知られている。 
マジェススティックホテルの屋上には、サイゴンリバーを見おろせる風通しが良い開放的なバーがある。彼らもここで酒を飲みながら、いろいろ議論を交わしたことであろう。それにしてもすばらしい眺めだ

客室のレイアウト走り書きスケッチ

再びホーチーミン

レックスホテル・サイゴン

2度目のホーチーミン滞在で泊まったホテルがレックスホテルである。
中心を貫く大通りで、近くにインターコンチネンタルホテル、カラベルホテルやコンサートホールなどが集中している。
レックスホテル、レロイ通りの公園より撮影

 1989年 筆者撮影

レックスホテルの正面入り口とエールフランスの看板。
(バリ・サイゴン間には定期便が開設されていた)

 1989年 筆者撮影

レックスホテルの正面入り口の看板。フランス語から英語にシフトした。

 1989年 筆者撮影

レロイ通りのホテル側面。歩道で商売をする人達。 

 1989年 筆者撮影

レロイ通り歩道のタバコ売りのおばさん。

 1989年 筆者撮影

車は少なく、バイクもまだ稀で、自転車が多い。

レロイ通りのホテル側面  1989年 筆者撮影

レックスホテルのレセプション

 1989年 筆者撮影

ロビーラウンジの黒光りする紫檀の家具材が重厚すぎて、空間を暗くしている。
そして象牙のオブジェ︕まだこういった趣味が高級であるとされていた時代であった。

 1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

家具材が紫檀で重厚すぎる。そして象牙のオブジェ︕

レックスホテルの客室は、前回のマジェスティックホテルよりもはるかに良い。
ただしテレビは同じくレトロで、チャンネル切り替えは手動で、ガチャガチャ回すタイプが備えてあった。

レックスホテルの客室  1989年 筆者撮影

ホテルの裏方エリア

以下4枚の写真は、ホテル1階の閉店していたレストランの裏方スペースの記録である。この永らく放置されていただろうスペースに、日本料理店を開店してほしいという要請があり、調査に来たわけであった。

見ての通り、厨房の器具はボロボロで、全器具を輸入して、総入れ替えをする必要があった。その後シンガポールに帰り、図面を作成しシンガポールの内装業者の選定を行い、ベトナムの現場で仕事での準備が始まった。

準備が終わりシンガポール職人チームがベトナム現地に乗り込んだ。そこでわかったことは、ベトナム側の内装工務店が、資本主義国では当たり前に使われている、取り付けに必用な工具(カッター、ドリルなど)を持ち合わせていないことだった。シンガポールより多くの工具の輸入が必要だった。

店の内装は、無事完了した後、ベトナム側から工具や機械類を、全て置いていってほしいとの要請があり、それらをホーチーミンに置いて帰ったとのことであった。当時の日本はバブル景気の真っ只中であった。

同じ時期のベトナムは、このような状態で、考えられない格差があったわけだ。

サービスエリア廊下  1989年 筆者撮影

危なそうな電気配電盤  1989年 筆者撮影

調理器具  1989年 筆者撮影

流し台

1989年 筆者撮影

メコンデルタの風景、ホーチーミン市郊外

 1989年 筆者撮影

川辺のレストラン。

この当時は外国人向けの、しゃれていて昼食の会話を楽しめるようなレストランは、市中に少なかった。外食は川辺にある簡易な野外レストランで、川魚やこの地固有の美味な川海老を食し、息抜きをするのが唯一の楽しみであった。

 1989年 筆者撮影

ベトナム航空の難民機

1989年、ベトナム・ホーチーミン市での仕事が終了し、出国のため空港に向かった。出発ロビーには、かなりの地元の人達で混雑の状態であった。
予約済みのバンコク行きベトナム航空の長い列に並んだ後、順番が回ってきた。スーツケースがチェックインされた後、予約したはずの席はないと伝えられた。ありえないオーバーブッキングにに遭遇したわけである。

しかたなく次の席があったベトナム機でバンコクへ向かうこととなった。
タラップ(エアーブリッジ等は当然ない)から搭乗すると超満席であった。
隣の席は、バイオリンを抱えた男の子であった。その子が、彼は『僕はアメリカに行くのだが、あなたはどこへ︖」と聞いてきた。周辺の家族連れの人達も、飛行機は初めてのようで、なんだかみな高揚した雰囲気だった。しばらく会話をするうちに、この飛行機はベトナム難民用の特別機であることが解った。

このフライトでは、筆者も難民の一員として処遇された。

以下6枚の写真は、バンコク・ドンムアン空港に到着した直後の光景である。難民の人達は、空港に用意された国連の特別施設に向かうバスに案内されていた。
そこからアメリカ、カナダ、オーストラリアなどの難民受入国に散らばって行くのであろう。写真で見るとおり、彼らの身なりはかなり良く、ボート難民のイメージからかけ離れた、富裕層難民といった感じであった。

この難民機に乗せられた難民者以外の普通の外国人乗客は、筆者も含めて5ー6人で、通常の手続きのため通関エリアにバスで向かった。

バンコク空港に到着したにベトナム難民の人達
1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

TU-134B ベトナム難民用の特別機バンコクに到着

ベトナム航空の機体に、TU-134B と機種番号が書かれている。
この飛行機はソ連製ツポルフである。サイゴン陥落後、ベトナムまだ自由主義国からボイコットされ続けていたため、ボーイングやエアバスが導入できなかったわけだ。

 1989年 筆者撮影

国連の特別施設に向かうバスに案内されている

 1989年 筆者撮影

ベトナム難民用の特別バスでバンコクの国連施設へ

 1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

 1989年 筆者撮影

MINOXが盗まれた︕

当時収集していたスパイカメラ(ミノックス)やミニテープレコーダーを、念のためベトナムで使用すべく携帯して行った。
ベトナム出国時の混乱の中、スーツケースが長い間、手の届かないところに留め置かれた。シンガポールに帰って、数日してチェックしてみると、これらのミニ機材はもぬけの殻で、盗難にあっていた。

スパイカメラで撮った記録は全て失われた。

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