ダッカ, バングラデシュ 2011-2014 #3/3

ダッカ, バングラデシュ
2011~2014
#3/3

ベンガル平原とデルタ

このダッカのような超過密都市、超渋滞都市を作り出した原因は一体何なんだろうか?その前に、このバングラデシュという国の固有な地理的性格を知らなければならない。

バングラデシュは世界的な大河、ガンジス川とブラマプトラ川が合流してベンガル湾に注ぐ大デルタの領域にある。ガンジス川流域面積は1,080,000km2であり、同ブラマプトラ川は651,000km2で、合計すると1,731,000km2となり、日本の国土378,000km2の4倍以上に相当する。

つまり日本の4倍の面積に降り注いだ雨やヒマラヤ、チベットの雪解けが、この2つの大河を流れて、ベンガル平原に至り、そのほとんどがバングラデシュ国内を流れ、ベンガル湾にそそぐ。年間の最大流水量はガンジス川で1秒に7万トン、ブラマプトラ川で1秒に10万トン、合計1秒に17万トンで、利根川の200倍強の流水量があるといえる。

この2大河にメグナ川がダッカ付近で合流する。これにより大河により運ばれた土により、肥沃な平原が形成される。しかし雨季のピークには、常に水害の心配をしなければならない。国内の交通は、これらの大河に橋を掛ける困難さにより分割され、物流が阻害され、国の発展の大きな障害になっている。

2017年のバングラデシュの人口は1億6千6百万人、ロシアの人口は1億4千6百万人である。日本の面積の4割のバングラデシュ(148,460 km²)の人口は、ロシア(17,100,000 km²、10倍以上の面積)の人口よりも多い。
バングラデシュの人口が驚くべきほど過密であることがわかる。両国の平均寿命は、共に72歳である。

バングラデシュのデルタ地方。遠方はヒマラヤ山脈。

雨季ピークの冠水地域。国土の半分相当。この冠水は肥沃な大地を作り出し、沢山の人口を養うことが出来る。さらにより良い収入が欲しい人達は、首都ダッカに集まり、過密都市がつくられる。

水郷地帯

現地人の仕事仲間の人に、ダッカの農村地帯の見学を依頼した。郊外に出ると、そこには一面の水郷地帯があった。

写真 2011年 筆者撮影

この様な巾の狭い簡易な鉄橋を渡りながらさらに進んでゆく。

写真 2011年 筆者撮影

クリークの一面に、水浸しにされた竹材の養生を、橋の上から写真を撮る。

写真 2011年 筆者撮影

ダッカの歴史的背景

12世紀からイスラーム化が始まった。13世紀初頭にはデリー・スルターン朝の勢力が及んだ。16世紀にはムガル帝国の元で、商工業の中心地へと発展したが、この期間に至ってもいくつものヒンドゥー教の王朝が存続していた。しかし1612年には皇帝ジャハーンギールの下で、チッタゴンを除きムガル帝国の統治下に入った。

16世紀にはムガル帝国の元で、都市としての発展の核が造られた。
ブリガンガ川の小高い丘に建設された商館やモスク、キャラバンサライなど、ダッカの起源の川べりになった。

ダッカの人口は、18世紀の半ばベンガル州の首都として45万人に達した。
19世紀末には、英国植民地ベンガル州の首都は、新興の新港湾都市、カルカッタに移り、人口が9万人弱にまで減少した。

英領インドは、インドとパキスタンに分離され独立し、その後内戦により、東パキスタンからバングラデシュとしての新国家が誕生した。ダッカはその新国家の首都に返り咲き、今日まで人口集中が継続して続いている。

ブリガンガ川

大都市ダッカの物流と農村地帯の人の往来を一手に担うブリガンガ川。この付近がダッカの誕生の基点となった。

写真 2013年 筆者撮影

川はとても濁っていて、水質汚染が進んでいる。ゴミも沢山浮かんでいる。

写真 2013年 筆者撮影

現在のブリガンガ川の岸辺とその対岸。連絡船が岸辺に待機している。

写真 2013年 筆者撮影

ダッカ旧市街

典型的なダッカ旧市街の道路と建物。混雑の中、活発な経済活動が繰り広げられている。

写真 2013年 筆者撮影

過密な建物に押しつぶされそうな裏町の小道。

写真 2013年 筆者撮影

祈りの時間が到来すると、裏通りではこの様な光景に遭遇する。

写真 2013年 筆者撮影

ラールバーグ・フォート 
LALBAGH FORT 建築遺産

バングラデシュの首都ダッカをはじめて訪問した後、その後の数回目の訪問で現地の仕事関係の人に、ダッカの建築遺産の見所を尋ねたところ、時間を割いて連れて来て貰ったのが。このラールバーグ・フォートであった。

ラールバーグ・フォートは、オールド・ダカのほぼ中央にある。ここはムガル帝国時代の城塞跡で、モスクや王族の霊廟、太守の邸宅、浴場、博物館などからなる複合施設となっている。もともとこの城は1678年にムガル帝国第6代アウラングゼーブ帝の王子によって建設がはじまったが完成しなかった城塞跡である。

ラールバーグ・フォートの城の領域は、下の地図の青線部分の内部まであった。途中で未完成の状態になっため、人口増加の圧力により、城内の東に半分にわたって、人家が侵食して、今日に至っている。

ラールバーグ・フォートの庭園にて。

周りに広がる旧市街の喧騒がうそのような、ほっとする建築遺産空間である。

写真 2013年 筆者友人撮影

冬の日暮れ前の柔らかい空気が城内を包みだした。

写真 2013年 筆者友人撮影

遠く離れた異郷で、その文化遺産の雰囲気を楽しむ。

写真 2013年 筆者友人撮影

ラールバーグ・フォートの日没。暮れる太陽が美しい。この方角が西方であり、メッカのある方角である。
バングラデシュの90%を占めるイスラム教徒は、この方角に向かって1日に5回の礼拝を毎日行なう。日暮れ後には4回目の礼拝を行なう。

写真 2013年 筆者撮影

バラ カトラ BARA KATRA 建築遺産(Great Caravanserai)

2014年6月 13回目のダッカ

ブリガンガ川の小高い丘に、ダッカの起源となるような建物が1645年ごろに建設された。ムガール帝国皇帝シャージャハーンの次男、シャースジャの公邸であった。

四角形の1階に馬やラクダの厩舎をおき、穀物や物資を保存する倉庫、商人が寝泊りをする宿泊施設がひとつになっていた。中庭の周りの四面には店舗が設けられ、その2階の層には22の個室が設けられている。これは同時にキャラバンサライであり、として商人宿でもあった。

中世、インド、イラン、中央アジア、果てはヨーロッパにつながる交易の道があり、キャラバン・サライは遠隔地交易の拠点となっていた。
当時は、インドにムガル帝国、イランにサファヴィー朝、トルコにオスマン帝国、といった巨大なイスラム国家がならぶ時代であったのだ。

バラ カトラ、1870年中庭の内側からの写真。現在は正面上部にマドラサ(アラビア語で、イスラーム世界における学院)が増築されたので、この原形は損なわれた.

BRITISH LIBRARY

現在のブリガンガの河岸とバラカトラの位置関係。

4世紀以上が経過し、人口の増加とその圧力によりスラム化したオールドダッカ地区。

その中に埋まってしまったバラカトラ。

筆者作図

河岸側からのバラカトラの正面入り口へのアプローチ。

バラ カトラBARA KATRAのKATRAとは、アラビア語のKataraからの、列柱の建物という意味である。

建物は、中央アジアの伝統的な中庭のあるキャラバン・サライの形態を受け継いでいる。下のスケッチは、バラカトラの正面の原形。作られた頃はブリガンガの河岸に面していた。

筆者作図

両側は、残った参道は中層ビルが建ち、狭められスラム化している、

筆者作図

侵食された建築遺産。

写真 2013年 筆者撮影

写真 2013年 筆者撮影

外装の漆喰壁は、ほとんど剥がれ落ちて、放置の状態にある。木の根が建物に食いこんでいる。

写真 2013年 筆者撮影

400年以上を経たむき出しの日干し煉瓦。

写真 2013年 筆者撮影

屋上に増築されたマドラサの付近にた。右の人物はここをガイドしてくれたダッカの建築技術者。地元の人の先導がなければ、このような場所に来るのは難しい。

写真 2013年 筆者友人撮影

バラ カトラの最上階マドラサから、外側市外を写す。

写真 2013年 筆者撮影

バラカトラの元来の敷地内に無数のトタン屋根の建物が占拠して、バラカトラの原型を認めることが出来ない。

写真 2013年 筆者撮影

写真 2013年 筆者撮影

写真 2013年 筆者撮影

人力車、人力運搬車の溜まり場。

筆者作図

写真 2013年 筆者撮影

屋台の食べ物

ダッカの市民は、川魚をよく食します。周辺で豊富に取れる魚や海老類をカレーでまぶし、平らな鉄板で油焼きした香ばしい匂いが食欲をそそります。

写真 2013年 筆者撮影

ブリアニ。

ターメリックを使った、インド風ピラフ。東南アジアでもインド系レストランでよく見かける。川からとれる貝類や鶏肉をマリネードされているようだ。こちらでは、カレーをかけて食べることもあるようだ。

写真 2013年 筆者撮影

写真 筆者撮影 2011-2014

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