マレーシア旅記 #4/4 1980s (マラッカ)

マレーシア旅記 #4/4
1970s 
マラッカ

マラッカ・世界遺産の街 

マラッカはペナン島のジョージタウンとともに、2008年に「マラッカ海峡の歴史都市群」としてユネスコ世界文化遺産に登録された。 東アジア、東南アジアにおいて類をみないユニークな建築様式、そして文化的な町並みを構成していることが高く評価されたとのことです。

そのマラッカが世界遺産に登録される30年ほど前に訪れた時の記録である。

マラッカの中心部を流れるMALACCA RIVER。

MALACCA RIVER, 筆者撮影

マレー半島南部にある世界遺産の町、マラッカ。現在は世界遺産に登録され、世界中から観光客が訪れるマレーシア随一の観光スポットであるが、筆者が訪れた1970年代は訪れる人は少なかった。

15世紀にマラッカ王国が誕生し、マラッカ海峡を東西貿易の要衝として大きな富を築く。16世紀に入ると、ポルトガル、オランダ、イギリスの統治が続き、西洋と東洋のエッセンスが共存する、世界でも類をみない多様性に満ちた町になった。

下の写真は MALACCA RIVER に架かる橋。

MALACCA RIVER に架かる橋,  筆者撮影

ポルトガル領マラッカ時代の建築物

セントポールの丘

1511年、ポルトガルがインドを経由して、マッラカ海峡に至りこの地を征服し、要塞や教会を丘の上に建設した。丘の上からはマラッカ海峡が一望できる。

セントポールの丘からマラッカ海峡を望む, 筆者撮影

セントポール・カトリック教会跡

セントポール教会は、1521年にポルトガルによってこの丘の上に建てられた。現在では、木製であったであろう大屋根は朽ちて、レンガの壁のみが残されているが、今でも教会の重厚感は伝わってくる。

丘のふもとにはサンチャゴの砦があり、セントポールの丘を防衛していた。

1982 筆者撮影  

1982 筆者撮影  

セントポール・カトリック教会跡
窓や窓枠は朽ち果てているが、時代を越えた存在感が感じられる。

セントポール・カトリック教会跡
1982 筆者撮影

フランシスコ・ザビエル像

マラッカ海峡を望む丘の上。重厚な外壁が残るカトリック教会跡の前面にフランシスコ・ザビエル像がある。フランシスコ・ザビエルは、ここマッラカから東アジアに布教開始、後に日本に至る。

ザビエル像の右手が無いのは、かつて埋葬された彼の遺体がローマ法王の元に届いたとき、右手が無いことが判明。同じ時期、このマラッカのザビエル像に雷が落ち、右手を直撃。粉々に飛び散ったという。

フランシスコ・ザビエル像
1982 筆者撮影

オランダ領マラッカ時代の建築物

1641年、オランダ東インド会社が、ポルトガルからマッラカを奪い占領。

オランダ植民時代の1783年にキリスト教会が建立される。

筆者はうっかりして礼拝堂のベンチの上に大切なカメラを置き忘れてしまった。外へ出て5分ぐらいして、そのことに気づき急いで教会の内部に戻ると愛するカメラは元の位置にあった。この件はあたかも日本国内での出来事の様なハップニングだった。

CHRIST CHURCH MELAKA 1982 筆者撮影

オランダ広場のサーモンピンク色の建築物

マラッカのシンボルカラーともいえる、オランダ広場の建物の色。建設当時のオランダ占領時代、これらの建物はすべて灰色であったという。

その後、イギリス植民地時代にメインテナンス上の理由で、サーモンピンク色に塗り替えたといわれている。

CHRIST CHURCH MELAKA 前の広場 
1982 筆者撮影

その後、オランダの東南アジアの香料貿易の拠点は、ジャワ島・バタビア(現ジャカルタ)に移ったので、マッラカは衰えていった。

英領海峡植民地

ポルトガル領⇒オランダ領⇒イギリス領

マラッカの為政者はヨーロッパ列強の勢力興亡によってその主が変わった。最後の植民勢力のイギリスのラッフルズは、航海に必要な水が豊富なペナン島、航海の要衝であるシンガポールを1826年に手に入れた。その後、近代的なシンガポール港の台頭が著しくなり、遠浅であったマラッカの港湾機能は衰退して今日に至る。

マラッカのショップハウス

ショップハウスは間口が狭く、奥に長いのが特徴である。これはオランダ統治時代、間口の幅で税金が決まっていたためである。その代わり奥行きの長さは問わなかったので下図の様な「うなぎの寝床」状の地割が出来た。地目は、下図の様になり100メートルの奥行きのショップハウスが出現している。
この奥行きは一般的な京町家の6倍以上になる。

ショップハウスの特徴であるファイブ・フイートウェイ

また、ショップハウスの外観を特徴づけるのが、日よけ、雨よけの役割があるアーケード状の通路。英国統治時代に5フィートの幅で設置が義務付けられていたため、「ファイブ・フィートウェイ」と呼ばれる。

筆者撮影

プラナカンとよばれる人々と文化

15~16世紀、中国から渡ってきた人々がマレー半島やシンガポールで現地の女性と結婚してうまれた子孫のこと。男性はババ、女性はニョニャと呼ばれ、中国とマレー、西洋を融合させたユニークで豊かな文化を築きあげた。類まれなる美的センスで、ニョニャクバヤ、ビーズサンダル、ニョニャ食器、プラナカンタイルなど、いくつもの美しい文化を今に伝えている。

ファイブ・フットウェイ

1982 筆者撮影

ショップハウスの平面図と断面図

左端が前面道路、1階前面にファイブ・フットウェイ。薄緑に着色した部分は中庭で、採光と通気用の機能を満たしている。

based on arcismoasia graphic

ホテルの部屋からのマラッカ海峡の眺め。

1970年代は、まだ開発前で埋め立て以前の海岸線が残っている。

1982 筆者撮影

マラッカ海峡の洋風マンション

マラッカ市街地を海岸沿いに南に行くと、ポルトガル植民者の末裔の村に至る。この集落では、ポルトガル語はすでに使われていず、近くにインド風ポルトガル料理の食堂があるだけであった。海辺にはマラッカ海峡に突き出た洋風マンションがあった。この海辺は、現在は埋め立てられている。

1982 筆者撮影

マラッカのモスク:

カンポン・クリン・モスク Kampung Kling Mosque

マラッカのモスクは三角の屋根のスマトラ様式が多く、マラッカ王国初期のデザインである。ミナレットはパゴダ型の白い尖塔で、1748 年にインド系のイスラム教徒によって建設されたとされる。

1982 筆者撮影

マレー人の高床式の家屋。

地産地消で建てられた典型的なマレー人家族の住居。ひさしが充分にあり、通風も良く熱帯地方の気候に適した建築である。

1982 筆者撮影

街中の中華系の寺

マレー半島に移住した華僑が共同で建てた道教のお寺。(写真下3枚) 

1982 筆者撮影

1982 筆者撮影

1982 筆者撮影

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