ブラジル長期滞在の記 #2/15 サンパウロ#2 就職

ブラジル長期滞在の記 #2/15
サンパウロ#2 (就職)

海外渡航、1962年

初めての就職、初めての給料

サンパウロの⽇本⼈街で居候しながら、就活をしていたが、そのころ東⼤留学していた、⽇本で知り合っていたユダヤ系ブラジル⼈の紹介で、同じ2⼈のユダヤ系建築家の共同事務所に雇ってもらうことが出来た。

ブラジルに来て、⽇本で個⼈教師から習っていたポルトガル語が、ほぼ実⽤に耐えられなかったことがわかった。ここでは、図⾯引きが仕事として求められていたので、徐々に英語からポルトガル語に、⾔語移⾏する⾔語習得期間の意味があった。

下写真の右側の⼆階が1年半ほど勤めていた事務所である。 

COPANコパンビル。
1966年に竣⼯した。
設計したのはサンパウロのオスカー・ニーマイヤーの建築事務所。
このビルは1,160住⼾があり、5,000⼈が居住できるようになっている。

左側ビル、 EDIFICIOITALIAサンパウロにある超⾼層ビル。⾼さ168m、46階建て. 1956年に着⼯し1965年に竣⼯した。ブラジル国内では3番⽬の⾼さである.

1964年東京オリンピックのころに完成した、この⼆つの建築物は、現場打ち鉄筋コンクリート構造で、このような流線型の⽴体を表現していることに衝撃を受けた。

ブラジル建築家の造形⼒の⾼さを⽬の当たりにした。

6. AVENIDA PAULISTA

アベニーダ・パウリスタは1891年に完⼯し、1909年にはサンパウロでは⽯畳ではない、はじめてのアスファルト舗装の⼤通りとなった。当時のコーヒー成⾦やその他で成功した事業主が競ってこの⼤通りや近辺に豪邸を建てた。

1950年代の後半ごろからそれらの邸宅は近代建築のビルに取って代わられる様になった。標⾼は約830メートルで、サンパウロ市の尾根にあたり、その全⻑は3キロ弱の分⽔嶺に相当する。

現在、この⼤通りには国際企業、⼀流企業、⼤⼿銀⾏、商社などの内外の有名企業が本店、⽀店、代理店等を構えていて、領事館などもある。 サンパウロ・アート・ミュージアム、⼤学、TV&FMの放送局などもこの⼀等地に位置し、サンパウロの業務のみに限らない⽂化の発信地区である。

1966年から1968年ごろまで勤めていたパウリスタ通りにあった設計事務所のビル(⾚⽮印)。

正⾯は⽩⼤理⽯の建物である。グーグルマップで調べてみると今⽇でも存在していることを確認できた。当時1960年代は左右のビルは存在せず事務所のあった⾼層階からの眺めは、仕事の合間に息抜きをするにはとてもよい環境であった。洗⾯所は共⽤でなく各事務所区画ごとにあり、その点でも快適であった。

朝の10時ごろには、30代の若いボスに誘われて数ブロックはなれたカフェにエスプレッソを飲みに⾏き、仕事上のコミュニケーションをするのが⽇課になっていた。

仕事はいつも沢⼭あり、この設計事務所でショッピングアーケード、⾼層マンション、住宅、サッカースタジアムなどのデザインと製図を任されて、残業や忙しい時は休⽇出勤もいとわない⽇々を過ごした。
26歳から28歳の若僧であり⼀⼈⾝であったので、苦労は買ってでもしろ、というのが当時のモットーであった。

1963年筆者撮影

1960年代に住んでいたペンションから4年間にわたり、5キロの距離を、この今となっては懐かしいパウリスタ通りを毎⽇⾞通勤した。

7. ルア・ダ・コンソラソン

サンパウロで初めてお世話になったペンション下宿。
ポルトガルコロニアル⾵の⼀軒家。(⾚印)

1963年筆者撮影

初めての海外⽣活をサポートしてくれた、この朝⾷つきのペンションは、ラテン⽂化圏の空間で、異国的な雰囲気が味わえとても気に⼊っていた。ただ、おしゃべりなブラジル⼈たちが⼋⽅から投げかけてくる会話はポルトガル語のみであり、地球の反対側になってしまった⽇本へのホームシックに加えて、⾔語的緊張から体調を崩し、頭痛で熱が出て、⼀週間程ベッドで回復も待った。

ペンションの⼥主⼈ドナカルメーラが、親切にベッドまで飲み物や⾷事を運んでくれて、その恩はいまでも忘れ得ない。

サンパウロ市街地を縦横に結んでいた路⾯電⾞

1965年筆者撮影

この坂道の中程に、2回⽬の引越し先であるペンシオンがあり、勤務先アベニーダパウリスタの事務所まで5キロを毎⽇愛⾞のフォルクスワーゲンで通っていた。このペンシオンには12⼈ほどの若い男の独⾝者が住んでいて、皆2-3⼈の相部屋であった。僕の場合はリクエストにより個室があてがわれ、半地下の部屋であったがプライバシーが充分に確保され、もうしぶんない住環境であった。ほかにあと1台の駐⾞スペースがあり、⾞の所有者は勤め⼈のエンジニアであった。

ある⽇その⾞の運転席の窓の下に⼤きな弾痕があるのを⾒つけた。所有者のエンジニアに聞いてみると、サンパウロからリオデジャネイロに向かって⾼速道路を⾛⾏中に、銃弾をくらったとのことであった。命中のの位置がわずかに上にずれていた場合、⼈⾝事故は必須であった。夜の⾼速道路であった。犯罪者は、⻑距離運転者の場合かならず現⾦を帯⾏していると⾒込んでいるので、このような射撃事件が珍しくないとの結論だった。

Rua Cardoso de Almeida  

1965年筆者撮影

パカエンブー スタジアム

仕事場と居住地の中間地点にあったサンパウロで最も著名なサッカースタジアム。ここでブラジル⼈のサッカーファンに連れられて、正真正銘の王者ペレがプレイするゲームを⾒ることになった。

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