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東南アジアの水辺の世界
#1/6
シンガポール
要衝・マラッカ海峡
インド洋と南シナ海を通して太平洋と結ぶ海運上の要衝がマラッカ海峡である。
そのマラッカ海峡の出⼊り⼝にあるシンガポール港は、アジア⼤陸のランドマスの最南端にあり、その卓越した地理的位置により、ヨーロッパ、中東と極東アジアを結ぶ最も重要な中継地として存在している。

シンガポールの外島たち
資料によると、ロンドンの東インド会社の雇員としてペナン島に派遣さたラッフルズは、その後ジャワ島やスマトラ島の植民地経営にたずさわる。そしてラッフルズはついにシンガポール島の地理的な重要性を見抜き、拠点をここに定めて海峡植民地がスタートすることになった。
シンガポールの外島地図

筆者スケッチ
ブラニ島
ブラニ島はシンガポール本島とセントーサ島に挟まれた⾯積1.2Km2ほどの⼩島である。
英国植⺠地から独⽴前後の1世紀でこの島ほど変貌を遂げた例はない。⾃給⾃⾜の静かな島から錫の洗練所へ、そして軍港を経てコンテナー島へと変貌した。
⽔路が掘削され、頑強な護岸が作られ、島の⾼地は削られ平らにならされ、⾯積は拡張された。
地表は森林に覆われた海⾵のある島から、コンクリートで覆われた平地になり、太陽光が直射する耐えられないほど⾼温の島に変遷した。

20世紀初頭のブラニ島の海上集落。

20世紀初頭のブラニ島の海上集落。 picas.nhb.gov
1968年ごろ、ブラニ島にあった水上住居。
涼しそうな海辺に自然発生した漁師家族が住む高床の家屋。。
後になり一斉に退去となった。

ブラニ島の水上住居 flicker photo
21世紀初頭のブラニ島のコンテナーポート。
コンクリートの地面は、熱帯の太陽の直射光と輻射熱で耐えられないほど暑い。

21世紀初頭のブラニ島のコンテナーポート。 筆者撮影
セントサ島
セントサ島はシンガポール本島の南側、シンガポール海峡を睥睨する位置にある。そこに⽬をつけた英国植⺠地提督ラッフルズ卿は、この島の⼩⾼い突端に砲台を築いた。この砲台は、Fort Silosoと呼ばれ、本来はインド洋ーマラッカ海峡ー南シナ海からシンガポール海峡に⼊ってくる戦艦からの攻撃に備えるのが主要な役⽬であった。
ところが、第⼆次世界⼤戦が勃発し、⽇本帝国軍は英領マラヤ(現マレーシア)を陸伝いに、北⽅(シンガポール島の裏)側より進軍してきたため、このセントサ島の強固な要塞が無⽤の⻑物になったことを、1970年当時、シンガポールの友⼈が解説をしてくれた。
下の写真は、セントサ島が開発される前1970年初頭の⼿付かずの海辺の状態である。

海上のジーゼル給油所。現在はもうない。筆者撮影
⼤戦後、シンガポールが独⽴し、英連合軍の撤退が始まり、この島はシンガポール政府の管理下になり、無⽤であった砲台は戦争博物館になった。その後セントサ島は、政府の直轄で開発がおこなわれる様になった。
当初シンガポール本島からセントサ島へのアクセスは、海上ボートと新しく出来た空中ケーブルのみに限定されていた。⾞を排除し、セントサ島に空気汚染を持ち込まない⽅針であった。
1970年のセントサ島からシンガポール海峡を望む筆者撮影戦後残された.

筆者撮影
旧英軍の兵舎。

1970年筆者撮影
政府系開発会社セントサデベロップメントコーポレーションの看板。
セントサ島の開発が始まる直前の写真である。

1976年 筆者撮影
海からのセントサ島

1976年 筆者撮影
セントサ島の海辺にあった消えた⺠間の海鮮料理屋。
週末、貸切船で沖に出てダイビングを楽しんだ後、船を横着けしビールで喉を潤すことが出来た。1980年代になって、海岸はすべて国有地化されたため、その後消失した。

1976年 筆者撮影
しばらくして、この島の観光の潜在価値が⾼まるにつれ、開発の⽅針転換が打ち出され、道路橋が造られた後、ゴルフ場、リゾートホテル、マリーナ付き住宅などが、順次に開発され造られて⾏った。観光開発という経済的利益のため、環境保護の理念、原則論は後座すりになった。
その延⻑線に新設のカジノと巨⼤な駐⾞場が2010年にオープンした。
セントサ・コーブ
2005年ごろセントサ島の東岸を埋め⽴て開発された邸宅群。
ヨットやモーターボートで家の前に直接接岸できるタイプ。
シンガポールでは、外国⼈が⼟地付⼀軒屋を所有するには、様々な法的縛りがある。
対してこのセントサ・コーブの住宅区域では、特例として外国⼈が更地を購⼊でき、その上に⾃分の設計で⾃由に家を建てることが出来る。
筆者のインドネシア⼈の顧客が、2006年に不動産を購⼊したので、招かれて⾒学をしに⾏った。当時海外の超富裕層やセレブ達からの需要でバブル状態になり、⼀軒数⼗億単位で取引が⾏われていた。
その後リーマンショックを経て不動産価格が暴落し、投売りがおき、ここの不動産価格はシンガポールで最も下落し、いまだ元の取得価格に戻っていな

セントサ・コーブ位置図
ブコム島
もともとマングローブ林で覆われたスワンプの3っつの⼩島が埋め⽴てにより1つになた島の総称。
1世紀ほど前は、船舶に⽔を供給する基地の役割があったが、戦後シェル⽯油が製油所を⼤々的に建設し、その後⽯油化学製品の⼀貫⽣産設備の投資が⾏われた。この種の施設としては、世界最⼤の⼀つである。
戦後独⽴50年間の間に、政府の開発プランにより島の⾵景が劇的に変化を遂げた。


英国植⺠地から独⽴する前のブコム島 picas.nhb.gov
日本赤軍!
シンガポール本島から5kmの沖にあり、⼊島にはきびい⾝分調査が⾏われる。(記録によると、1974年に⽇本⾚軍のメンバー2⼈がこの島を襲い⽯油タンク施設を爆破した。ベトナム戦争当時、この島からアメリカ軍に⽯油の供給をおこなっていた)。


現在のブコム島の⽯油コンビナート
スマカウ島
ブコム島のさらに南3kmにある島。
人命救助!
週末のある日、我々の雇ったダイビング用のボートがブコム島沖でスコールにみまわれた。激しいスコールの中、マレー人の家族5人が溺れているのをを発見した。シンガポール海峡の潮流は速い。それに加えて、海面にたたきつける豪雨で見通しが悪いはずだ。彼らに近づき、友人と2人でオールを指し伸ばし、彼らを海上から我々の舟に助けあげ救助は成功した。
彼らは近くの島の住民であることがわかった。その島まで船で送り上陸し、そこの集落に届けることになった。彼らはお礼の挨拶も出来ないほど、恐怖で動転していた。彼らの安全を確認して我々は島を去った。その島がスマカウ島であった。この島はヤシの林があるだけで耕地はなく、集落は海で生計を立てていることがわかった。一見して島民はとても貧しそうだった。


photo shin min daily news
強制移住?
もともと⼟地所有権のない海上に住んでいた島⺠は、強制的に本島に移動され、公共住宅をあてがわれた。
現在も他の2島を合わせて埋め⽴てが⾏われている。海に囲まれ⼟地に貪欲な都市国家の象徴の島といえる。

海に向かっていた⽞関⼝:Collyer Quay
にぎやかな海の玄関口。

にぎやかな海の⽞関⼝。シンガポール。1971 年筆者撮影
1970年ごろ筆者の撮影になる下の写真には、港の沖に防波堤と灯台が写っている。その後⻑い年⽉をかけて、防波堤の沖合いに⼤規模埋め⽴てがおこなわれ、カジノや国際会議場などが続々建てられて⾏った。
1971年当時のCollyer Quayからの写真。
遠方に防波堤と灯台が見える。後にこの位置以遠の沖合に38ヘクタールの埋め立て地が完成し、MBS(マリーナベイサンド)が出現する。

1971年筆者撮影
防波堤だった所が沖に向かって更に埋め立てられ、MBS(マリーナベイサンド)のホテル、コンベンション、カジノが出現した。

2011年筆者撮影