インド紀行 1989 #3/26 ムンバイ

インド紀行 1989
#3/13
ムンバイ

1989年2月、マドラス(現チェンナイ)からボンベイ(現ムンバイ)に初めてやってきた。フライトはエアーインディアのロシア製の飛行機で、機内にはロシア語の案内サインがそのままに残っていた。1993年以降、印米関係が緊密化する以前のこの頃は、インドはまだ社会主義路線の継続中であったと見てとれた。

この1989年当時は、すでに日本人旅行者がシンガポールに溢れていた時期である。この豊富な世界遺産を有する大国インドが、統計上はシンガポールより外国人旅行者の数が少ない時代であった。

インド門からエレファンタ島へ

(下)インド門とエレファンタ石窟との位置関係。

観光客用と地元の人達の海上輸送のため、インド門の桟橋に停泊する船。

1989年 筆者撮影

インド門とその左に高級ホテル、タジマハ-ルホテル。

1989年 筆者撮影

インド門の波止場からガイドさんの案内で、湾内の11キロ沖のエレファンタ島に向かう。アラビア海の内海で、波も静かでインドの冬の風が心地よい。

沢山のかもめ、餌を欲しがって旋回。

1989年 筆者ガイド撮影

途中の島にある貨物船の埠頭

1989年 筆者撮影

エレファンタ石窟  世界遺産

ボンベイの高密度市街地の沖わずかなところに、この別世界が海上に浮かんでいる。事前の知識がなかった場所であり、期待値が高かった。

8-9世紀ごろからこの洞窟寺は存在していたそうである。

1989年 筆者撮影

石材を切り出し形を整え、それらを積み上げてゆくのを「足し算建築」と呼ぶならば、この洞窟寺院は、巨大な岩石を繰り抜いて作った「引き算建築」、あるいは建築的なスケールの彫刻とも言えるだろう。

この初期ヒンズー教洞窟寺院は、後に作られることになる巡礼者のためのゴプラム(山門)、沐浴場などはまだなく、いたってシンプルな造りである。
根源的な祈りの場所として、力強い空間が今でも生きているといえる。

この宗教建築が幸運だったのは、離れ小島に造られ、外部からの侵略などに巻き込まれず、造られた時代の雰囲気を今に伝えていることであろう。

翻って、世界最古の現存木造建築である奈良・斑鳩の法隆寺は、建立が7世紀とされる。このエレファンタの寺院より古いことになる。当時の奈良時代の建築技術が如何に優れていたかが、ここへ来て改めて理解できた。

1989年 筆者撮影

貸しきり状態 の旅行者と左端のガイドさん。

1989年 筆者ガイド撮影

ヨガ修行者として、シヴァ神が蓮の花の上で瞑想している像。

1989年 筆者撮影

洞窟寺院の中にあるシヴァ神専用の寺院。

この中にシヴァ・リンガが収められている。

1989年 筆者撮影

このシヴァ・リンガの彫刻は、男根が抽象化され表現されたものである。
台座はヨーニと呼ばれ、女性器を抽象化した彫刻である。
ヒンズー教の豊穣のシンボルであり、多くの寺院のなかに礼拝の象徴として設けられている。

巨大なリンガ 信仰の対象

                1989年 筆者撮影

一人の石工職人さんが、こつこつと保全工事を行っている。

そして悠久の時が流れてゆく。
このようにして洞窟寺院とその芸術作品は受け継がれて行くのであろう。

1989年 筆者撮影

見学を終えて、外部広場出ると、地元の人達に出会った。
頭に載せた真鋳製の水がめがかっこ良い。

格好な被写体になる。

まだプラスチック製の水がめが広く出廻る以前の時代だ。

1989年 筆者ガイドさん撮影

インド門

1911年に、英王室のジョージ5世、メアリー王妃がボンベイに上陸した後、それを記念して建てられ、1924年み完工した。
大英帝国の最盛期に、海外からの要人がインド上陸の際、儀式的な入り口の役目を果たした。ボンベイは海外に開いた特別な都市であったのだ。
その名残りがインド門である。

インド門  1989年 筆者撮影 

インド門  1989年 筆者撮影

左手奥にタジマハールホテル・右にインド門

 1989年 筆者撮影

インド門  1989年 筆者撮影

インド衣装のガイドさん。お世話になりました。

インド門前  1989年 筆者撮影

インド門とタジマハールホテルの間にある広場には、おびただしい数のインド国内からと思われる旅行者が、集まり憩っていた。
女性たちのサリーの色彩が眩しく、いかにもここがインドであることを感じさせるボンベイのスポットであった。

1989年 筆者撮影

タジマハール パレスホテル

この1903年に開業したタジマハールパレスホテルは、ムンバイ第一の豪華ホテルである。創始者はインドの近代工業の父でタタ・グループの創始者である。 

伝えられるところによると、彼が、当時、最高級で欧米人オンリーのホテルに宿泊を断れたのに端を発している。それをバネにして、この豪華ホテルをインド人の設計により建築し完工させた。インドを訪問する世界の政治家・王侯貴族・有名人らがこのホテルの客となった。

1989年 筆者撮影

このホテルに隣接する、インドの入り口としてのシンボリックなインド門は、このホテル開店の約20年後に完工した。そして2つの建物の相乗効果で、この一角がムンバイ第一の観光スポットになった。タタ・グループの創始者は、先見の明があったことが解る。

タジマハールパレスホテル 1989年 筆者撮影

1989年 筆者撮影

タジマハールパレスホテルの車寄せ。           

1989年 筆者撮影

インド門側内海に面した客室のウインドウ。

1989年 筆者撮影

タジマハールパレスホテルのエントランス。

このホテルを初め、タジ・ホテルグループは、全インドの主要都市に、このクラスの豪華ホテルをチェーン展開している。

1989年 筆者撮影

ロビーのツアーデスク

1989年 筆者撮影

海側客室のスケッチ。

1989年2月2日チェックイン。2泊。

客室レイアウト走り書きスケッチ 1989年

古いテレビ

1989年 筆者撮影

タジマハールパレスホテルの客室の様子。

1989年 筆者撮影

ムンバイのコロニアル建築

ムンバイは、英国ビクトリア朝時代の大金を投じて造られた建築物の宝庫である。ロンドンの商館に比べても、当時の富が、いかにこの街に集中していたことが、街を歩いていると良くわかる。

1989年 筆者撮影

2階建ての赤いバス、そして洋風スタイルの建物、まるでンロンドンの街角のようだ。

1989年 筆者撮影

1989年 筆者撮影

フローラの噴水

ムンバイにおいてロンドンのピカデリーサーカスに相当する市街地の要に、1864年、この一帯にあったボンベイ城壁を壊して作られた。

ここを基点に、南へ1.5km、20分で、インド門とタジマハールパレスホテル。北東へ1.5km、20分で、ムンバイの鉄道ターミナル駅。西へ1km、10分で、アラビア海の海岸マリーンドライブに到達する。
混沌のムンバイの街中を徒歩で観光するとすれば、道しるべとして見逃せない交差点であろう。

左手前にフローラの噴水, 右奥にオリエンタルビル

オリエンタル・ビルディング

オリエンタル生命保険会社のコロニアル風ビル。1893-96. 

各保険会社は当初、インドに在住する英国人の保険加入に消極的であったといわれる。苛烈な環境から死亡率が高かったためだ。オリエンタル生命保険会社が、はじめてインド滞在の英国人や他の欧州人の保険事業に乗り出して事業を広げたといわれている。

1989年 筆者撮影

1989年 筆者撮影

1989年 筆者撮影

ボンベイ市内の旅行者向け大型店。社会主義国家なので、こういった店舗はほぼ国営と言ってよい。舶来ブランド品はないが、いろいろな魅力的なインド国産商品が陳列されている。お店の従業員は、みな親切である。

ただし、ほとんどの売り場のレジは、鉄格子で囲まれた檻の様相で、とても違和感がある。でもこれがこの国の標準なのであろうか?

1989年 筆者撮影

お店のマネジャーや販売員さん。

皆さん公務員であるのだが、気さくで親切な人達であった。
店には顧客が少なく、外国人が少なかったせいもあったのかもしれない。

1989年 筆者撮影

マハトマガンジーの家

植民地時代以降のインドの国旗は、下写真の様にめまぐるしく変遷しました。

1989年 筆者撮影

この邸宅でガンジーは、1919年にインド人が逮捕状なしで拘束できる法律に反対して、イギリスに対して暴力によらない非服従を宣言したのがこの館である。

場所はムンバイフォート地区の邸宅(マニバワン)街にある。この館は民間の裕福な商人の所有であったという。
ここには多数の欧米系のグループ観光客が訪れていた。
左側の案内板に1917-1934年、ガンジーのボンベイにおける住居とある。

1989年 筆者撮影

1989年 筆者撮影

ガンジーの邸宅(マニバワン) の入り口。

               1989年 筆者撮影

ガンジーの居間

ガンジーはこの居間で、糸車を使い綿布を手織っていた。
まことにシンプルで、持ち物は最小限のライフスタイルであったことが伺える。

1989年 筆者撮影

沈黙の塔

ガイドさんが、ゾロアスター教徒の鳥葬墓地を見てみないかと誘ってきた。
鳥葬って何だそれ︖ と思ったが、何でも見てやろうと、案内してもらうことにした。

沈黙の塔 TOWER OF SILENCE の位置

その場所は︖

ムンバイ市街中心部の西側のアラビア海に面した弓なりの海岸線があり、マリーンドライブと呼ばれている。この海岸に沿って高級高層住宅が連なっている。
マリーンドライブの北側はマラバール丘と呼ばれ、この森の中に沈黙の塔があり、鳥葬が行なわれる聖域があった。

高級住宅街マラバール丘の森の中にあった。

沈黙の塔は、ゾロアスター教〔拝火教)が鳥葬を行う施設である。

死体の管理をする為に鉄の扉がひとつだけあるが、聖域である為、パールスィー以外の出入りは禁じられている。
外からは実際に鳥葬が行なわれる内部を見ることが出来ない。

ガイドさんによると、ゾロアスター教徒のことをパールスィー「ペルシャから来た人」という意味だそうだ。インドのパールスィーの人口は少なく、少数民族であるが、経済活動が活発なムンバイに集中しているとのことであった。パールスィーには経済的に豊かで社会的地位の高い人が多いとのことである。ペルシャ商人の末裔といったところであろうか︖

沈黙の塔 鳥葬施設 平面図 PHOTO FROM WIKIPEDIA

沈黙の塔。

これが鳥葬が行なわれる施設である。周りは円形の高い壁に囲まれていて、外からは内部をうかがうことが出来ない。が、この森の周辺に高層マンションが建つことになれば、上層階からは見えてしまうことになるが。。。

パールスィーは、環境への被害が最も少ない衛生的で合理的な方法で鳥葬を行っていると説明している。

PHOTO BY JUSTDIAL.COM

インドの多様性

ペルシャの拝火教の鳥葬文化は、その後チベットにも伝わっている。
インドにはダライラマ師に率いられたチベット亡命政権の居場所もある。また大勢のイスラム教徒もこの国の構成員だ。そしてネパールやブータンの人達もインドに住んでいる。カルカッタ(現コルカタ)には中華街さえあり、インドブランドの醤油も作り、国産として使われている。インド東部のアッサム地方には沢山の少数民族が住んでいる。

この様に、インドはとても懐の深い社会になっている。何でも飲み込んで、少数者もしっかり存在することが出来る抱擁大陸と言えるのではないだろうか︖
以上が沈黙の塔に遭遇した後の筆者の感想である。

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