インド紀行 1993-1994 #19 ゴア

インド紀行 1993-1994
#19
ゴア

コーチから国内線で、ゴアのバスコダガマ空港に到着した。
空港の名前からして、ここはもうポルトガルの匂いがした。
宿はゴア出身シンガポール在住の友人の実家に泊めてもらうことになった。

ゴア

もともとゴアは、16世紀初め頃まではイスラーム王朝の重要都市であったとされる。1590年にコーチンからゴアにポルトガル領インドの首都が移された。
その後このゴアから喜望峰経由で、リスボンまで定期航路が開かれた。
このルートで、香料をはじめ、アジアの様々な物品が、中近東を径由せず直接ヨーロッパにもたらされることとなり、ゴアの存在価値が確立された。

ゴアは、いろいろな異なった見所が、離れた地区に分散さている。各々が別々な性格を持ち地図上で理解するのに骨がおれる。

1. 旧市街(世界遺産の聖堂が残る。市街地は消滅している)
2. 新市街(パナジ)。現在のゴアの中心地で、人口はこのパナジに集中。
3. アンジュナ地区。ヒッピーの集結地。バックパッカーが多い場所。
4. アグアーダ地区。高級ビーチリゾートの集結地。

それぞれ距離があり異文化や目的地が分散しているので、全部を廻るには時間を要する。(下地図)

17世紀初頭に、ゴアは黄金時代でを迎えた。
リスボン・モザンビーク・ゴア・マラッカ・マカオ・長崎を結び、ゴアはポルトガルの海洋帝国の中心となった。
市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされる。
今(1993年)は、下の拍子抜けした寂れた案内図が残るのみである。当時存在したであろう都市や集落の遺跡はすでになく、栄華の残り香を残した幾多の教会堂を見るのみである。

錆びついた古ゴア地区の案内図

写真 1993年 筆者撮影

Basilica Bom Deus 世界遺産

1594.年から1605年にかけて建設された。ザビエルの遺体が収められている。
彼は1552に中国広東省の川島鎮でこの世を去ったと伝えられている。
その後マラッカを経てここゴアに移送され、この教会に埋葬された。

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

大量なレンガむき出しの教会側面の重厚なバットレス

バットレス (Buttress)とは、、控え壁(ひかえかべ)または、建築構造の一つであり、建物本体を構成する主壁に対して直角方向に突き出した補助的な壁を作ることで、適切な支柱を持たない屋根の重量によって主壁に生じる横荷重を受け止めて、主壁を支持・補強する役割を果たす。(Wikipesiaより) 
ヨーロッパのゴシック聖堂は、ほとんどがバットレス構造で造られている。
(ノートルダム聖堂が典型例)

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

バットレスの一部。

写真 1993年 筆者撮影

ボム・デウス聖堂内部。意外とシンプルな内部。いまも現役の祈りの場である。

写真 1993年 筆者撮影

420年現役の祭壇。

写真 1993年 筆者撮影

祭壇の造り。ラテン風の造りの上に、どこかヒンズー風の職人の香りがする。

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

聖堂の外にゴロンと置かれた石柱

写真 1993年 筆者撮影

Church and Convent of St. Francis of Assisi 世界遺産

教会堂と修道院、1661年ごろ竣工。世界遺産。初期には小さなチャペルであった。ラテライトブロックとライムストーン。東洋の真珠。

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

MAE DE JESUS

ゴシック形式のこの教会は比較的新しく、1873年ごろ造られたとされる。

写真 1993年 筆者撮影

ここにもバットレスの構造が。

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

ゴアの小ポルトガル地区

シンガポールでゴアから移住していた知人の案内で、ポルトガル直系の人達が集まっている地域を訪ねることとなった。そこはゴア州の首都になるパナジという街で、ポルトガル人の子孫がまとまって住んでいる一地域に連れてゆかれた。

そこは、感じの良い住宅地の中の一軒家であった。リビングルームに入れてもらった。そこには、10人以上の若者たちが集まり談笑中であった。会話はポルトガル語でおこなわれていた。

その日はたまたま1994年の大晦日であった。皆新年を迎えるにあたり、楽しそうに大麻の回し吸いをしているのにき気づき、興味深々の別世界に侵入した観があった。後になって、この地域はラテンコーターと呼ばれていることが解った。

ヒッピーの聖地・アンジュナビーチ

1960年代、欧米発祥のヒッピーの一部は、インドなど東洋の宗教、哲学に魅力を感じ、反体制思想、左翼思想や自然のなかでの「共同体生活」への回帰を提案した。

バックパッカーの先駆けとも言える「ヒッピー」が、世界で見つけた(自分達の価値観での)聖地の一つとして、インドのゴア、アンジュナビーチという場所を見つけたわけだ。

ここは、1960年以来、西欧からのバックパッカーの中心地になり、トランスパーティーやサイケデリックミュージックのメッカの地位を確立していった。

1993年12月31日の大晦日に、パナジのラテンコーターからシンガポールのインド系友人やこの地で知り合った知人たちと、アンジュナビーチへトランスパーティーに参加するべく車で向かった。

着いたのは夕方で、そこは遮るものがないアラビア海に面した広大な海岸で、まさに大晦日の夕日が沈む時刻であった。すでに相当数の若者たちの熱気で、砂浜は混雑状態であった。まもなく大音響の音楽と、サイケデリックな照明がパーティームードを掻き立て、みなトランス状態になってゆく。。。

ヒッピーの聖地・アンジュナビーチのトランスパーティー 

リーラビーチリゾート

1994年1月1日! アンジュナビーチのトランスパーティーから午前様で友人の家に帰った。元旦朝起きたら同行者の女性2人から猛反発を食らった。昨夜大晦日の夜は、友人宅の犬の遠吠えで、怖い夜を過ごしたとのことで、大不満をぶつけられた。あやまても許しを得られなかった。

今夜は高級リゾートホテルにチェックインしたいので、予約をするようにとの命令が下った。ゴアの友人に訳を話して、彼の家をあとにした。時期は年末年始のヨーロッパからの旅行者のピーク時期であったので、どのホテルも満室であった。

昼ごろになって、下記のリーラビーチホテルに空き部屋が2室出来、幸いにもチェックインとなった。ウオークインルームレイトは、懐にやさしくない法外なものとなった。

THE LEELA BEACH GOA

ゴアのビーチリゾート、チェックインがかない大満足の2人。

写真 1993年 筆者撮影

写真 1993年 筆者撮影

リーラビーチホテルと直通のアラビア海の浜辺

写真 1993年 筆者撮影

リーラビーチホテルの客室平面図スケッチ

東京から来た茶道の師範の先生が、「アラビア海の浜辺で海水に足を浸し、思い出にしたい」、とのたっての願いをかなえるためビーチまで同伴した。
彼女はインドでの単独行動をためらっていたのだった。
アラビア海の対岸はもうアフリカ大陸だ。

翌日1月2日の朝、ムンバイ行きの飛行機に乗るため、ゴアの飛行場に向かった。機種はエアバスの大型機であったが、欧米系の旅客で満員であった。
ゴアに来てみたら、この場所が如何に欧米系の人達に人気があることが、良くわかり納得であった。

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