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上海、蘇州 #6/6
1985
蘇州市内
報恩寺の北塔を基点に南北に通じる蘇州の大通り。京都を小さくしたような格子状の街割りである。以下はオーバーツーリズム以前の蘇州の様子である。

1985年 筆者撮影
報恩寺の北塔
三国時代に建立された。八角形で9層の高さ76mの仏塔。

1985年 筆者撮影
車の中からの撮影。

1985年 筆者撮影
道路際に建つ大きな住宅。独特の八角窓を含め小さな窓が沢山あるが、こちら道路側には入り口がありません。実はこの住宅の正面は、反対側の水路に面した方にあり、そちらが表になっているわけです。

1985年 筆者撮影
自転車が主人公です。

1985年 筆者撮影
日野ジーゼルの真新しいバスが、自転車をかき分けて走って来ました。

1985年 筆者撮影
仕事帰りの人達の自転車の列、ゆっくりと橋を渡っています。

1985年 筆者撮影
水の蘇州
夕方の静かな水路と水際の住宅。後になって改修され、観光地になっているかもしれない。

1985年 筆者撮影
街のはずれの水路、木船、広がる耕作地。

1985年 筆者撮影
姑蘇飯店
官営のホテルに泊まった。

姑蘇飯店 1985年 筆者撮影
姑蘇飯店のうすい枕とタオル生地のベッドカバー。

1985年 筆者撮影
蘇州駅
1985年蘇州駅付属の飯店。ここから上海の駅に鉄道で戻ります。

一階建ての蘇州駅 1985年 筆者撮影
蘇州駅の待合ホール。大勢の人々が上海行きの列車を待っているところです。

1985年 筆者撮影
お茶や軽食の出来るスペースはありますが、駅中ショップなどは無く、がらんとしたホールに人が密集します。

1985年 筆者撮影
駅構内
列車の本数が少ないので、線路に出てもとがめられることなく、こんな撮影も許されます。

蘇州駅 1985年
蘇州駅、夜になって上海方面行きのプラットホームに戻りました。乗客の皆さん珍しく列をつくって、列車の到着を待っていますね。
上海駅で乗客たちが列をつくらず、長距離列車の狭い入り口に団子のようになって殺到し、押し合いで喧嘩のようになっていたのを思い出した。

蘇州駅プラットホーム 1985年 筆者
人民解放軍の軍人さん
事前に予約してあった車両は、軟席(日本で言うとグリーン車。他は硬車で普通車)の指定席であった。近くの席に、人民解放軍の将軍数名がすわっていた。
列車が動き出し、しばらくして友人が軍人さんたちに話しかけた。
この長距離列車で中国東北(旧満州)の瀋陽の軍区から12時間以上かけて、用事で上海を目指しているとのことだった。
お互いに気が合ったらしく、茅台(マオタイ)酒などを飲み交わしながら、談義が佳境に入った。筆者も通訳や筆談を交えて加わり、酒の快い酔い心も手伝って、昨今の国際政治がらみの話をしてみた。軍人たちも外国人と話す機会は、当時は珍しいことであったらしく、機嫌が良く、話は多いに盛り上がった。

軍人と筆者 1985年 筆者友人撮影
終着駅の上海に到着

1985年 筆者撮影
陸橋はなく、乗客は線路面を渡っています。

上海駅到着の周恩来号 1985年筆者撮影
周恩来号
調べてみると、周恩来号は、旅客用ジーゼル機関車で、1978年から1987年まで、上海に配属されていた。この長距離列車は中国東北(旧満州)の瀋陽から12時間以上かけて、上海を結ぶ特急列車である。
1985年3月といえば、日本では東海道、山陽、東北、北陸新幹線が、すでに開通ずみのころであった。中国ではまだこのようなレトロ列車が、非電化長距離列車として運行されていたのだ。

上海駅到着の周恩来号と軍人たち 筆者撮影1985年

1985年 筆者撮影
1985年の上海駅。
国鉄上野駅のミニ版の様であった。

1985年の上海駅 1985年 筆者撮影
新しい上海駅

現在の上海駅
日本航空上海支店
帰国便の確認のため日本航空の支店を訪れると、開店してまだ27日後であることがわかった。

1985年 筆者撮影
人民幣・1985年
1985年当時、外国人は、両替で中国の貨幣人民幣(下)を手に入れることが禁じられていた。

中国銀行兌換券・1985年
外国人は、中国の兌換券(下写真)を外貨で両替し手に入れ、中国内で中国貨幣の等価として使用することが出来る。
当時の中国国内では、この兌換券は外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に中国人の人気が集まり、人民幣との闇両替が横行した。
上海の准海中路の喫茶店にコーヒーを飲みに入ったとき、隣の席にいた地元の若者から交換を頼まれた。外国人用の貨幣が国内用の貨幣より若干価値が高いためであることがわかった。この外国人用の兌換券を市場で売れば、小遣い稼ぎが出来る。闇両替のレートは、兌換券1元=人民幣1.5 元 1.8元程だったといわれる。(上に政策あれば下に対策ありの世界である)
兌換券(下)は1995年正月に流通が停止され廃止された。いまでは日本でアンティークとしてネットでオークションの対象になっている。1.8

人民帽
上海で帰国前に気になっていた人民帽を買った。
日本では「人民帽」と呼ばれるこの帽子は昔は「人民解放軍」の軍帽であった。
文化大革命時に市民も軍服を着て軍を支援することを表すことがあったので、その後民間にも広がり、上海では1985年当時は多くの人々がこれをかぶっていた。この帽子は中国共産党のシンボル的な存在であったので、当時の東南アジアの反共国家(インドネシア・マレーシア・シンガポール等)への持ち込みは厳禁であった。

最初の上海訪問から6っ月経った頃、再び仕事がらみで上海を訪れた。
今度のビザはシンガポールの中国商務代表部で取れるようになっていた。
このころから東南アジアの華僑の人達の中国詣でが、少しずつ始まりつつあった。

都ホテル・東京
上海で錦江飯店に泊まっていた時、隣地のホテルの建設に携わる大手建設会社の幹部社員と知り合いになり、彼が携わった東京の都ホテルへの宿泊を勧められた。
このホテルに泊まり、昨日まで宿泊していた超級ブランドの上海錦江飯店と比較すると、天と地の違いであった。
上海と違い暖房は贅沢なほど効いていて、お湯も贅沢なほど出てくることだった。1985年当時中国の一級都市の一級ホテルと、日本のもてなしと設備のスタンダードは、これほどの格差があったのである。

都ホテル・東京 1985年 筆者撮影
追記:
1985年に上海の建築関係の駐在員から聞いた話である。
中国では物品のやり取りに関してはお金を払うが、ノウハウの提供に関しては金を払いたがらない。
この点を先方に指摘すると、答えは次のようだったということだ。
昔、日本が話し言葉を筆記する術が無かった頃、漢字というノウハウを只で教えてあげた。現代の日本の進んだ技術を只でもらうことに違和感はない、とのコメントであったそうで、彼は返答に苦慮した経験談を教えてくれた。