上海、蘇州 #2/6
1985

上海の旧列強租界

ブロードウエイマンションと旧日本租界

下の写真は、旧イギリス租界とアメリカ租界の境界線になっていた蘇州河と、そこにかけられた外白渡橋ガーデンブリッジである。1907年竣工で、現存する鉄橋としては中国で最も古いものだそうだ。
この橋の北側には旧日本租界があり、その虹口(ホンコウ)地区には、かつては陸軍警護隊に守られながら、10万人の日本人が住んでいたとされる。
調べて見ると、1937年になり、第二次上海事変で国民党軍と日本軍が衝突。日本側の勝利に終わり、蘇州河北部の共同租界にいた中国人は降伏した。その後この地域はほとんど日本人に独占された。

日本の海軍陸戦隊によって、日本人以外の居住者は銃剣を突きつけられ、全員の退去が命じられた。間もなく下写真のブロードウェイマンションの屋上には日章旗が翻ることとなった。
この当時、国際共同租界とフランス租界合わせても、他国の外国人は2万人しかいなかったので、いかに日本人が多かったことがわかる。

外灘の北詰の先に蘇州河に外白渡橋がある。遠景がブロードウェイマンション.
1985年 筆者撮影

戦後は、アメリカ軍による蒋介石と中華民国国民政府に対する助言の活動の司令部になった。

ブロードウェイマンションの戦い

資料を調べているうちに次のようなことが解った。 1949年、中華民国軍正規兵は、人民解放軍の侵攻をくいとめるため、1000人以上の国民党兵士がブロードウェイマンションを防衛した。外国人記者クラブの屋上から、国民党軍の狙撃兵は外白渡橋を前進しようとする共産党軍を掃射した。
五星紅旗がブロードウェイマンションに翻ったのは1949年5月27日である。これで人民解放軍による最終的な上海の占領となった。ブロードウェイマンションの外国人特派員クラブは壊滅した。

下写真中央に見えるのは、呉淞江対岸ブロードウェイ・マンション。東洋のマタハリと呼ばれた川上芳子が定宿にしたということである。
外白渡橋、外灘、黄浦江、そして浦東、新旧の上海が一望できる絶景スポットである。上海市において軍事的に戦略的なロケーションであったことが解る。

1985年 筆者撮影

旧フランス租界の散策

准海中路

1901年開通した旧フランス租界を東西に貫く准海中路。1985年当時は高い建物がなく威圧感がないので、ご機嫌な散歩道である。プラタナスの並木道が旧フランス租界の雰囲気を残していた。上海の街では、このあたりが一番文化の香りがする区域である。

1985年 筆者撮影

1985年 筆者撮影

1985年 筆者撮影

1960年初期に筆者が、学生アルバイトでよく通った昔の東京・表参道を思い出させる通りであり、なぜか既視感があり、懐かしさを感じる。

1985年 筆者撮影

准海中路は、自転車天国。

1985年 筆者撮影

准海中路を横断する歩行者。ここは南京東路と違い男は背広、女はカラフルなコートである。

1985年 筆者撮影

ギャングの洋館

この高い塀で囲まれたスタイリッシュな洋館、戦前に上海が最盛期だったころ、闇世界のギャングのボスの邸宅だったと教わり、写真に収めた。
租界は3つのエリアがあり、租界毎に警察権が違っていて、端境には取り締まりが機能していなかったとされる。

加えて、フランスその他はアヘン売買に裏から手を貸して いたので、茶館、妓館、アヘン窟がはびこった。中国各地から犯罪者、ならず者、難民、秘密結社の構成員などが集まりだし、アヘン、賭博、売春など、様々なブラック要素が重なり合って、「魔都」上海が出来上がったのだろう。

1985年 筆者撮影

1985年 筆者撮影

老大昌

1913年創業!パリから来たフランス人が開業。1920年より経営者が変わり、准海中路のこの位置に店を構える。戦争や革命を潜り抜け生存し続けた稀有な西洋菓子店。この交差点は人の往来が多い。信号や横断歩道はあるが、人々は関係なく融通無碍に路を渡っているようだ。

1985年 筆者撮影

シャープの看板

1985年 筆者撮影

街角の工事現場は︖

大きな官製プロジェクトの杭打ち現場に集まる関係者。ほとんどが人民服に人民帽!

1985年 筆者撮影

竹の建築足場と散らかった廃材!搬入材と排出材がゴチャゴチャになっている。

1985年 筆者撮影

工事中の竹の建築足場。垂直線は何処に︖

1985年 筆者撮影

1985年 筆者撮影

路上ではトラックを見かけることは少ない。たまたま見かけた騒音が「けたたましい」トラックが、年季が入ったこれだった。

ポンコツトラック   1985年 筆者撮影

西郊賓館

エリザベス女王も泊まったことがあるホテル西郊賓館。上海虹橋空港と市街地との中間の閑静なロケーションだ。広大な緑豊かな敷地の中にある賓館だ。

1985年当時、共産党地方幹部の食事と集会の場所だそうだ。ここでの食事会に招かれたシンガポール華僑の要人に連れられて、現地共産党幹部との食事に預かった。

筆者は、北京語はおろか地元の上海語も不能なので、意思疎通は筆談のみである。この時解ったことは、彼らがしたためる漢字の書体の美しさであった。

食事内容は、まず赤ワイン、白ワインの紅白の食前酒。そして前菜は、京都のおばんさいのようなシンプルで上品な小皿。そして上海風中華のフルコースであった。一般の人が使っている街中の「脂っこい」国営食堂とは天と地ほどの違いがあって、その格差にとても驚いたのを忘れることが出来ない。

西郊賓館      1985年 筆者撮影

上海郊外の風景 

1985年 筆者撮影

長屋のような建物に密集して住み、人口密度は高そうだ。

1985年 筆者撮影

上海郊外集合住宅 1985年 筆者撮影 

上海の路地裏

朝方、表通りから住宅地区の小道に入ると、庶民の生活空間になった。そこで偶然に見たものは、路上にしゃがんでで髪を洗う若い女性であった。家内で沸かしたお湯を、地面に置いたアルマイトの洗面器で洗顔に集中していたのだ。家の中のスペースが限られているので、この様に野外で行ったほうが気分が良いのであろう。洗濯も家の前で行い、そのまま日当たりと通風の良い路地裏の小道に干している。こういった中国的な都市空間が、道路一本裏へ入ると広範に広がっている。。

1985年 筆者撮影

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