ジャカルタ回遊録 1981年

ジャカルタ回遊録
1981年

ジャカルタ・ハリム 国際空港 

HALIM INTERNATIONAL AIRPORT

戦前のオランダ植⺠地時代から存在する空港である。古ぼけた建物で、内部照明がとても暗かったのを覚えている。電⼒供給が充分になされていなかった頃のことである。

ターミナルビルを出た前⾯の駐⾞場は、街灯の数が少なく、夜は暗く観光客が訪れるような空港ではなかった。空港の領域を出ると、すぐに⽔⽥が広がっていて、典型的な発展途上国の⾸都の空港であった。1985 年から 1991年にかけて、新空港が出来るまで、スラバヤでの仕事の関係で少なくとも20回 !は、この空港を発着陸することになった。税関やイミグレは、常に袖の下を要求して外国人を困らせるので、あまり思い出したくない空港である。

ハリム空港

マラリ事件

日本の当時の⾸相、⽥中⾓栄は東南アジア歴訪の最後としてのインドネシア訪⾨で、このハリム空港に到着した。しかし、デモ隊によって空港から迎賓館への主要道路はすべて封鎖されており、迂回して迎賓館へ向かった。
この時の暴動で、最終的に⾞両800台が破壊され、470名が逮捕され、11名の死者を出す惨事となった。この暴動は筆者もシンガポールのテレビ報道で⾒ていたので覚えている。1974年1⽉のスハルト政権の時のことであった。そのほとぼりがさめた1年後に、ジャワ島周遊の旅をすることになった。

ハリム國際空港 

ジャカルタ・クマヨラン空港 

KEMAYORAN DOMESTIC AIRPORT

ハリム国際空港で入国審査を終えて、インドネシアの地方都市に向かうためには市内にある別の空港、クマヨラン空港に向かい再チェックインをしなければならない。外国人にとってはこの空港が更に難関であった。

クマヨラン空港 ターミナルビル

ここジャカルタから更にスラバヤに向かう場合、国内線のチェックインカウンターで国際線並みの荷物再チェックがあった。筆者達の場合スラバヤでのプレゼンテーションや打ち合わせのための膨大の設計図書を携帯していて、それらを広げて見せるよう要求される。係官は今まで見たことがない図面を前にして、高価なものに見えたのであろうか、関税を掛けると言い出し、金を払わないと飛行機に乗せないと頑張ってくる。すでに国際空港で検査済みであるにも関わらずである。

すでに役人の権限を逸脱している。しかし外国人は「脅せば鴨になる」ということを経験から学んでいるのだろうに違いない。当時は、これら不じ倫なことが普通であったのだった。

クマヨラン空港 ターミナルビル 入口付近
1982年筆者撮影

スカルノと都市計画

スカルノは、宗主国オランダからの⺠族解放運動において⼤きな⾜跡を残したインドネシアの政治家である。⼤衆の⺠族意識を⿎舞した。スカルノは、宗主国オランダが創設したバンドン⼯科⼤学を卒業している。
彼はそこで建築や芸術の素養を得て、1965年に失脚する前に、インドネシアの創世記の⾸都ジャカルタの都市計画、建築計画、そして⺠族独⽴の開放感のある数々の記念塔を後世に残した。
以下はその形に表れた⺠族独⽴の開放感あふれたジャカルタ市内の記念作品群の⼀部を紹介する。

⼤空の塔 Patung Dirgantara

1966 年に旧海軍本部の前に建てられた高さ 40m にもなるこの塔は、時のスカルノ大統領がインドネシアの将来の発展を祈念し建てられたものだ。
インドの神話マハーバーラをモチーフに表現したものとされる。
ハリム空港が唯一の国際空港だった頃、空港から市の中心部に向かう途中で必ずこの像を目にすることになる。インドネシアの首都ジャカルタ入りを実感させる記念塔であった。

⼤空の塔

1975年 筆者撮影

⻄イリアン⾃由解放の像 
Patung Pembebasan Irian Barat

⻄イリアン(現在のパプア)がオランダの植⺠地⽀配から解放されたことを記念し、1962年に建造された像。苦労の末に勝ち取った⾃由を、鎖を引きちぎって咆哮する⼈間で表現されている。
地上25mの位置で両⼿を上げる 9mの⻘銅像は迫⼒満点。
いかに独⽴と統合が悲願の夢であったのかが窺い知れる塔である。

歓迎の塔  Patung Selamat Datang 1962年完成

ホテルインドネシア前で⼿を挙げ、微笑む男⼥⼆⼈。1962年の第 4回アジアゲームの開催に合わせて、スカルノ⼤統領の案で造られた「歓迎の塔」である。
高さ30mにもなる台座とその周りを囲む⼤噴⽔の中⼼にある。ジャカルタ⽬抜きのこの場所で、絶えまなく歓迎の笑みを届けている像である。

インドネシアの⼈⼝は2億6千万⼈で、その9割がイスラム教徒である。イスラム教はコーランの教えにより偶像は禁じられている。
にもかかわらずこれだけの彫像が⾸都ジャカルタにスカルノによって作られた。

インドネシアはイスラム教伝播以前に、仏教やヒンズー教の王朝⽂化がすでに存在し、それにより歴史的な重層社会をすでに形成していたことによるものと理解することが出来る。

1970年代当時のジャカルタ中心部のランドマーク地図

以下の記録写真の位置を示しています。

独⽴記念塔 モナス NATIONAL MONUMENT

ジャカルタの中央部公園の真ん中に建つ独⽴記念塔。
その広場の北から南へと⾛るタムリン-スディルマン通りは、スカルノが構想して開通させたワールドクラスの⽬抜き通りである。この初期のスカルノ発案の都市計画は、その後ジャカルタの都市開発の背⾻の役を果した。
独⽴記念塔、“モナス”は、左手に霞んで見える 

筆者撮影 1981年

当時のハイアット・アルヤドゥタホテルからジャカルタ市内を撮影。⼿前に建設中のインドネシア⽯油公社ビル。
かすんで⾒えるスカルノ元⼤統領によるインドネシア独⽴記念塔、“モナス” モニュメントの建つ公園の⼿前に、ジャカルタ市役所、反対側に元⼤統領官邸がある。

⽇本の戦後賠償と近代建築

ヌサンタラ・ビル(⾼層事務所ビル)

この100mの高層ビルは、目抜きのタムリン通りにある。インドネシア独立まもなく、日本の資金と技術により、耐震設計の鉄骨構造で造られる事になった。日本の耐震構造の大家である武藤清によってデザインされた。その後、彼が手がけた東京初の耐震構造デザインの超高層ビルでとなる霞ヶ関ビル以前のことであった。
このプロジェクトは日・インドネシアの技術者の交流を生んだ。インドネシア人技術者ウィラットマンが、その後インドネシアで数々の高層建築を担っていくことになる。この話は、筆者がその後インドネシアのプロジェクトに関わるようになった1980年代に、現地の建築関係者から聞いた話である。

ヌサンタラ・ビル(高層ビル)、日航ホテル(低層部分)。

筆者撮影 1981年

サリナデパート

1970年代ジャカルタの中心部で唯⼀の百貨店。
外国⼈好みのインドネシアの⼯芸品が沢⼭陳列されていた。
横道を隔てたビルに歩道橋が繋がっていた。
そのビルの2階には、タバコの煙モウモウの薄暗いスペースがあって、ガラの悪そうな男たちが密集していた。そこは、⼀種の違法カジノであったのだ。

イスラームにおいては偶像崇拝の禁⽌が徹底されている。イスラームは神の唯⼀性を重視するため、預⾔者の姿を描く絵画的表現は許されない。

イスラム⾦融とは、イスラム教における法律や規則を意味する「シャリア」にかなった⾦融取引を⾔います。
「利⼦」という概念が禁じられていることや、取引相⼿がイスラムの教義に反する事業(豚⾁、アルコール、武器、ギャンブルに係わるもの等)を⾏っていてはいけない点などがあります。

HYATT ARYADUTA HOTEL, JAKARTA

1980年代、筆者のジャカルタでの定宿。
最上階にはジャカルタ在住の日本人K氏所有の日本料理店があった。
焼肉・鉄板焼きがメインで、現地の官民接待客で大繁盛であった。

独立記念塔とバックのARYADUTA HOTEL

ARYADUTA HOTELの高層階から独立記念塔広場を鳥瞰する。

ARYADUTA HOTELの高層階から市内を蛇行するチリウング(CILIWUNG)川を鳥瞰する。(写真下3枚)1980年代初頭のジャカルタ中心部の記録写真である。

HYATT ARYADUTA HOTEL の客室。レトロなテレビ。

GAJAH MADA通りに完成したばかりの GAJAH MADA PLAZA 。
参考のため訪れた。

1981年 筆者撮影

スディルマン通りに完成したばかりの RATU PLAZA 。参考のため訪れた。

1981年 筆者撮影

ジャカルタ旧市街、オランダ植民地時代の建物が沢山残っている。

公共交通機関が未発達

沢山のバイク、スクーター。

手作業の火山由来の石のブロックが路肩で売られている。

筆者撮影 1975年

路傍の彫刻作品。この街は、芸術家の町であり、油絵製作の画家も多い。

筆者撮影 1975年

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