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ジャワ島周遊の旅 #1/2
1974-75年
初めてのインドネシア
シンガポールに在住して数年後、バリ島を訪れる機会がやって来た。マレーシア・クアラルンプールの不動産デベロッパーの招待で、バリのリゾートホテルを視察旅行をすることになった。
当時1970年代は、インドネシアの地方都市に向かう場合、一旦首都であるジャカルタに向かい、そこで入国審査が行われ通関後、国内線に乗り換え各地に向かうという規則があり、とても煩雑であった。
ジャカルタ・ボロブドールホテル 1974年
その様な事情でジャカルタに1泊することを余儀なくされた。
ホテルは当時のジャカルタでは唯一の5星のボロドブールホテルであった。

1974年 筆者撮影
ジャカルタの夜景・1974年
ボロドブールホテルの客室から見たジャカルタ市街の夜景。ひときは高い塔は、独立記念塔。その背景には今日連なる高層建築群が出現するはるか前の1975年。

1974年 筆者撮影
ジャワ島紀行
1975年の首都ジャカルタ
ジャカルタ中心部の目抜き通り。右下に日本大使館がある。

1975年 筆者撮影
トヨタ代理店の新しいビル。

1975年 筆者撮影
インドネシアホテルと大噴水
高速道路が出現する前、ジャカルタで最も交通量が多い大噴水のロータリー。その大噴水に面して、このインドネシアホテルが建てられて、今日まで現存する。当時国際的にもてはやされたモダニズム建築の好例である。筆者はこのホテルの開発によってとり壊しになった旧アショカホテルにも泊まっている。当時は話題のホテルであったので、デヴィ夫人をはじめ、政府の要人らや日系企業のビジネスマンらが利用したにちがいない。

1975年 筆者撮影
大噴水のロータリー。

1975年 筆者撮影
タマン・ミニ
ジャカルタには、インドネシア各地のいろいろな部族の伝統建築を一同に集めたタマンミニと呼ばれる施設が郊外にある。ここに行くと遠隔地の建物のレプリカを、現地に行かず、限られた時間で効率的に見学することが出来る。
スマトラ北部奥地のバタック人からニューギニア高地人まで、5千キロにわたる様々な原住民の建物を見ることが出来る。人口2億6千万人の世界最大の島嶼国家の豊富な伝統的異建築文化を、まとめて短期間で、その概要を知るための入り口の様なところである。
ジャワ島村落の伝統的な建物。

1975年 筆者撮影
スマトラ北部のバタック人の伝統的な建物。

1975年 筆者撮影
バタック人の伝統的な家屋の床下。

1975年 筆者撮影
バリ島の伝統的な建物。

1975年 筆者撮影

1975年 筆者撮影
スラウェシ島の伝統的な建物。

from Wikiwand
ジャワ島紀行
ジャカルタ ⇒ スラバヤ ⇒ ジョクジャカルタ ⇒ ジャカルタ
鉄路で周遊旅する2000キロ

ジャカルタ中央駅
1870年開業という長い歴史を持つ当駅は、かつてはジャワ島内各地を結ぶ長距離列車のターミナル駅としてインドネシア鉄道史とともに長らく機能していた。
1990年ごろになり、筆者がジャカルタ・バンドンを頻繁に往復するころになるころには、新しい都心に近いガンビール駅に中心が移っていった。

FROM WIKIWND
ジャカルタ⇒スラバヤ
櫛型のジャカルタ駅、沢山のプラットホームがある。
時代物の客車が停車している。観光客、ほとんど見かけず。

1975年 筆者撮影
ここからスラバヤまで約12時間以上の鉄旅である。距離は800kmで東京・広島間に相当する。列車は非電化ジーゼル機関車牽引の特急・ビマ号であった。
国外での始めてのアジアにおいての鉄道長旅であった。車両は普通車の編成が無く、全車両エクゼキューティブクラスであった。
ジャカルタ・スラバヤ間は、ほとんどが平野を走る。乗り心地は日本の戦後まもなくのそれであったので、特に違和感を感じなかった。

1975年 筆者撮影
現役で活躍する蒸機機関車
ジャカルタ郊外のインドネシア国鉄の機関庫で健闘する蒸気機関車。
筆者の戦後間もない少年時代の日本の国鉄を思い起こさせ、感慨に浸る。
この機関庫を通過し、1時間ちょとすると、風景が変わり一面の水田地帯となる。水が張られた緑の田んぼに、ワラ帽子をかぶった農夫が水牛と共に手作業を行っている。戦後まもなくの農機のなかったころの日本の田舎の生き写しそのものであった。

1975年 筆者撮影

1975年 筆者撮影
走行中の列車の窓から見ると、堤防のない河岸に家屋が過剰に密集しているのが良くわかる。ジャワ島の人口密度の高さの表象である。

1975年 筆者撮影
長距離列車・ビマ号での出来事
スラバヤ行きの長距離急行列車ビマ号は、ジャカルタの市街地を離れ豊かな米作地帯を走っていた。水田のバックグラウンドには青い山脈が連なっている。椰子の木が無ければ、日本の水田風景にそっくりである。
この列車には食堂車が連結されている。夕食の時間が近くなり食堂車に移って休息しようと思い行ってみた。食堂車の席には誰も居なかった。アテンダントのボーイさんに飲み物をとりあえず注文したが、意味不明の返答が返ってきてどうも要領が解らない。
しばらく要領の得ない状態でいると、車内にインドネシア語のアナウンスがあった。その直後沢山の乗客が食堂車に移りこんできた。
後で分かったことであるが、断食の時間が終わって一斉に食堂車に入ってきたのであった。回教徒が9割以上を占める社会には、一定の社会的ルールが広く定着している。我々外国人はそれを知らなかったため、食堂車があるにもかかわらず利用者完無だったことが分らなかったのであった。
食後しばらくして、夜行列車に体を預けてスラバヤに向かった。全距離;約750km。
スラバヤ
マジャパヒットホテル
インドネシア第二の都市、スラバヤの中央駅には早朝到着となった。
駅の案内所でホテルを紹介してもらいタクシーで向かったのが、このマジャパヒットホテルであった。街の中心部にあるオランダ由来のコロニアル風の落ちぶれたホテルであった。
1970年代の東南アジアの諸都市では近代建築が進歩の象徴としてもてはやされていた。シンガポールのあのラッフルズホテルでさえも手入れがされず、半分お化け屋敷の様相であったので、この手入れが行き届いていないマジャパヒットホテルのたたずまいにも、特に驚かなかった。

下の写真は現在のマジャパヒットホテルの中庭に面した客室前の通路である。筆者が泊まった1970年代は、天井に曲がった扇風機が奇怪な摩擦音を出しながら廻っていて、トイレのカバーも壊れて曲がっていたのを思い出した。
その後ヘリテッジ建築を見直す運動が世界的なトレンドになり、この死にかけていたホテルが、数十年を経て高級ブティックホテルに生まれ変わった。

スラバヤの商業地域。
沢山の人々が人力車など野外での仕事に従事して道に溢れている。

1975年 筆者撮影
スラバヤの住宅地区
オランダ風の住宅が多く、屋根の勾配が急なのか特徴である。

1975年 筆者撮影
スラバヤの市街地を少しほど離れた地区の幹線道路は、ヤギや羊の散歩道になっていて長閑なものである。人・車・動物が共存していた。

1975年 筆者撮影
幹線道路の両脇には、車夫兼失業者がぶらぶら。

1975年 筆者撮影
スラバヤ旧市街の植民地時代の建物。
スラバヤの旧市街地にはオランダ植民時代の名残りが点在する。

1975年 筆者撮影