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シンガポールの黎明期
1970年代
#1/10
シンガポールへ再び
1950年代、日本とシンガポールやマレーシア間の移動手段は、主流は船舶での海上交通であった。僕の大学時代、1962年ごろまでの留学生達は、卒業後船旅でそれぞれの母国へ帰国していた。時が変わって、小生が再びシンガポールを訪れた1960年代後半になると、空路での行き来が主流になっていた。
だだし、そのころの空路は、燃料や距離上の制約があってか、直行便はなく、東京ー台北ー香港ーバンコクーシンガポールという各駅停車的なフライトスケジュールが普通であった。小生の場合も羽田から日本航空でバンコクに着き、1泊をして、翌日にバンコクから、もう今は無きマレーシア・シンガポールエアライン(MSA)に乗り換え、シンガポールにたどり着くといったような便が当たり前であった。
空の旅も水平飛行状態になれば喫煙も許されたし、肘掛には灰皿もあるのが普通で、悠長な時代であった。

旧マレーシア・シンガポール・エアーライン
しばらくして、シンガポール航空、マレーシア航空に分離し各々が独立
シンガポールの到着は、当時はパヤレバー空港であった。現在は軍用空港になっているが、1981年にチャンギ空港開港までは、パヤレバー空港が最大の民間機用国際空港であった。
シンガポール島には、5つの空港がある
東京23区ほどの面積のシンガポールには、なんと5つもの飛行場がある。後になって埋め立て造成によって出来たチャンギ空港を除く4つの空港は、旧英領植民地由来のものである。(下地図)
そのうちのひとつ、セレター空港は戦前戦後を通じて軍用であったが、後に民間の小型飛行機も離着陸できるようになった。筆者が訪れた1970年代初期ごろには、セスナ機などの飛行トレイニングコースなどもあった。軽飛行機操縦のレッスンを受ける希望を持って申し込みをしたが、視力のテストで落ち、念願はかなわなかった。

シンガポール島内には5つの空港がある
セスナ機で、インドネシア・スマトラ島へ冒険飛行
シンガポールに居を構えてしばらくした頃、カナダからホテルのマネジャーとしてシンガポールに出向してきたベルギー人の若者と知り合いになった。彼から次の様な話がもちこまれた。インドネシアのスマトラ島パレンバン市に、個人パイロットとセスナ機で訪れるという企画である。スマトラ・パレンバンといえば、第二次大戦中、油田確保のため、旧日本軍の落下傘部隊の急襲で有名であることは知っていた。
というわけで、オランダ系のインドネシア人パイロットを紹介され、含め計3人でセレター空港からテイクオフとなった。朝方の天気は絶好で、赤道直下スマトラ沖の青い海の上、熱帯雨林の沢山の緑の小島を眼下に見ながら水平飛行に入った。僕の席はたまたまコパイロットの席で、前景の雲のない青空を楽しんでいた。早朝であり、まだ積乱雲の発生する前で、絶好の天気であった。

当時のシンガポール・セレター空港
1969年 筆者撮影
20分間の操縦訓練
するとパイロットが操縦の仕方を教えてやるので、短期間操縦桿を握ってみろと薦められた。空中でいきなりの指示である。
その指示とは、
1. 進行の方角を一定に保つこと。
2. 高度を一定に保つこと。
3. 機体の前後と両翼を水平に保つこと。
そのために必要な個別のメーターのチェックのしかたの教授を受けた。
そして操縦桿を握る。しかし、筆者は必死になってメーターの表示だけを集中擬視しているので、進行前方を見る余裕が失われる。そのために、計器メーター以外、何も見ていない状態になるのだ。副操縦の飛行訓練は、20分ぐらいした後、緊張と疲労で降参となった。

シンガポール・パレンバン往復、セスナ機の飛行ルート
スマトラ島パレンバン
パレンバンへなぜ行くことになったか︖
前述の知り合いのベルギー人のところに、パレンバンのホテルのオーナーから彼が所有しているホテルのことで、相談にのってほしいとのリクエストがあったそうな。到着したパレンバンの街は、規模の大きいインドネシアの田舎町と言った風情であった。
ホテルに着き、客室に通されたが、なんとゲストルームの床は単にセメントモルタルだけの仕上げであった。それにもかかわらず、室料は破格の外国人料金であった。宿泊客のほとんどが、石油発掘に携わる欧米人技師たちであり、他には適切な宿泊施設がないためでもあった。
打ち合わせが終わり午後になり、急に蒸し暑くなってきた。3人で、ローカルビールの杯をかわしあい、のどを潤し和気あいあいやっているうちに、午後の時間がもう少なくなってきた。至急シンガポールに戻らなくてはならない。あわてて空港に向かった。離陸直前に、そのベルギー人の友人がテイクオフをやらせてくれと、パイロットに申し出た。彼はメキシコのフライイングクラブの教習で、数十時間の訓練を済ましているということであった。そしてビールの勢いで無事離陸成功!!
離陸の後、操縦はパイロットに戻ったので一安心。しばらくすると日が暮れて、視界が真っ暗になってきた。このあたりになると、シンガポールやパレンバンからも、もう空港管制官のラジオ電波はとどかない空域である。昼間は有視界飛行が出来るが、夜間の暗闇では自分の位置が確認できない。恐怖の暗闇であるが、ただ前に進むしかないのである。
緊張の時間にナガナガと耐えていると、突然視界に街の灯かりが飛び込んできた︕シンガポールの街の灯が闇の中から突然見えてきたのだ。ラジオ通信も戻ってきた。地上からの誘導によると、我々が朝出発したセレター空港は、滑走路の誘導灯が無いのか、消灯済みかどちらかで、着陸の許可が出なかった。セレター空港の管制官から「到着はパヤレバー空港へ変更」との指示がパイロットに伝たえられた。パイロットは了解と返信、緊急にゴーラウンドをし、眩しいばかりの滑走路誘導灯の中、広すぎるパヤレバー國際空港の滑走路に、我々の小さなセスナ機を着陸させた。。。拍手。。。
旧パヤレバー空港の様子
1970年初頭、パヤレバー空港チェックインカウンター。車寄せからいきなりの外気に面したチェックイン。ロビーも無く、空調も無い。

1970年初頭、パヤレバー国際空港チェックインカウンター
1970年初頭、パヤレバー空港免税店。当時は香港カイタク空港も同じ様なカウンター式免税店で、課税が高い酒類を求める日本の旅行客が鈴なりになっていた。

シンガポール駐在になった経緯
ブラジルに滞在後、4ヶ月間のヨーロッパ建築紀行を終えて、帰国するまでに5年の歳月が経っていた。
幸運にも、ブラジル・サンパウロでかばん持ちをした早大教授の紹介で、東京・虎ノ門界隈の設計会社に面接に行く機会を得た。1968年の暮れの東京のことであった。面接で被雇用者の品定めの後、給料4万5千円の提示があった。これは筆者がブラジル・サンパウロでもらっていた給料の半分の額に相当した。その旨を申し出ると、そんな額は払えないとのことであった。(あたりまえである) 当時の日本の平均給与を理解、納得した後、中途採用の就職がが即決となった。
これで国内で腰を落ち着けて東京で仕事が出来ると思っていた。ところがしばらくして、社長から二週間後にシンガポール駐在することを命じられた。驚きであった。至急、シンガポール出身で、日本に永住している学生時代の友人であるY君に現地の事情について尋ねた。彼の返答は「行けば解る」であった。まだブラジル・ヨーロッパから帰国して2ヶ月も経っていない頃であり、あと2ヶ月出発猶予をもらった後にシンガポールに出発するむね願いを申請し、それが認められシンガポールに途任することになった。
ホテルニューオータニ
入社した会社が設計監理に携わったホテルニューオータニに、社長に連れて行ってもらった。1964年東京オリンピックに間に合うように建てられ、当時の東京としては数少ない国際仕様の五星ホテルである。上階のバーで、コニャックをごちそうになりながら、ホテル設計の心構え等を教えてもらった。
また上階の回転レストランに類似したものを、シンガポールのホテルにも作ることになり、後に大阪の製造会社と工場を訪れることになる。 一方、会社の近くにあった当時のホテルオークラにも何度か訪れ、日本調と現代建築の融合にも心を馳せた。シンガポールのオーナーさんが、オークラのショッピングアーケードのデザインをとても気に入っていて、将来のために生かせるよう見学に余念が無かった。
1960年代、ホテルニューオータニ。(本館)と出来立ての首都高。

ジャパンアルカイブより
2018年、ホテルニューオータニ。ガーデンタワーより、赤坂、青山方面。結婚式に参列のため50年ぶりに訪れ、宿泊。
ホテルニューオータニ、ガーデンウイング客室より.

2018年12月、筆者撮影
「行けば解る」シンガポール
前述のようなフライトで、バンコクからシンガポールに到着した初印象は、この街に「都落ち」といった印象であった。当時バンコクにはすでに日本の大手建設会社が工事をかかえており、きらびやかな歓楽街もあり、王宮や仏教寺院等豊富な観光資源もあり、すでに大都会の風格を現しつつあった。バンコクに比べるとシンガポールにはまだ田舎町の風情を感じたものだ。5星級の国際級ホテルは、ほぼ無いに等しかった。
シンガポールに着いて初めて泊まったホテル。当時シンガポール唯一の5星近代的ホテル。その名はマレーシアホテル。 1969年。

夜の上階にはミュージックバー。異国情緒抜群。その後、再開発により取り壊され、現在は高級コンドミニアムになっている。

シンガポールで住まいをさがす
駐在員の若造が、シンガポールの当時 上級であった豪華ホテルに泊まれたのは、たったの1泊だけであった。会社は社員に5星ホテル滞在の経験をさせるのが目的で、それ以上ではなかった。
マイトルホテル
そこで急遽、以下のような簡易ホテルを見つけて、その2階の部屋ににしばらく泊まりこみ、仕事の現場に通いながら、アパートメントを探すことになった。その古ホテルは、現地の家族所有のもので、維持管理がよろしくなく、ちょっとしたお化け屋敷の様相であった。
ある朝、激しい連続した銃撃の音で目が覚めた。寝ぼけたままで、恐る恐るガタピシャの窓を開けると、外は何事も無き平和な朝であった。着替えを済ませて1階に降り、管理人に音の原因を尋ねると、春節の爆竹音とのことであった。それまで、新年を陰暦の旧正月で祝う国があることも知らず、しかも強烈な爆竹音で新年を迎える文化あることなど想像したこともなかった。
当時はベトナム戦争真っ只中であり、東南アジア諸国はべトコンによるドミノ状の赤化が恐れられていた時期の中であった。北ベトナム共産軍がある朝突然、シンガポールに攻め入った夢を見たわけであった。

マイトルホテル シンガポール後、再開発により取り壊される。
パシフィックマンション
エメラルドマンションに住まいを定める前に数週間つなぎで滞在したリヴァーヴァレーロードにあった高層マンション。
当時まだ少なかった高層集合住宅・パシフィックマンション

1969年 筆者撮影

1969年 筆者撮影
エメラルドマンション
オーチャード通りの近くに中級のマンションが見つかった。ここならばプロジェクトの現場まで10分ほどで歩いてゆけるので便利だ。面積は150m2程で、寝室は3部屋、充分な広さの居間とキッチンがあり、他の独身同僚と2人で過ごすには充分な住居であった。所有者はマレーシア・シンガポール・エアーラインのキャプテンで、2年間の賃貸契約をした。
エメラルドマンション・エメラルドヒルロード

1970年 筆者撮影
エメラルドヒルロード
後に街区保存地域に指定された。奥の緑の高地はフォートキャニングヒル。中央の2棟の建物は、当時まだ少なかった集合住宅。
エメラルドマンションからの眺め.

筆者撮影1969年
エメラルドヒルロードの伝統的なショップハウス
背景の緑の小高い丘は、フォートキャニングヒル(Fort Canning Hill)。植民地時代の市街地防衛の要の地であった。

筆者撮影1970年
当時の日本からの海外駐在員には、国内での給料のほか、海外任地ではほぼ同額に等しい生活費、住居費用、車(支店長級には運転手付)が支払われていた。エリート駐在員が主流であり、日本人がまだ少なかった時代である。独身者の場合は、国内の給料はそのまま定期預金になるといった悠長で、よき時代であった。
免疫獲得
このエメラルドヒルロードのマンションに引っ越す前、食事は野外の屋台であった。当時のオーチャード通りには、昼間は駐車場、夜になると屋台村になる大きな野外スペースがあり、夜になると、とてもにぎやかで活気のあるスポットであった。
引っ越して来てまもなくは、どこに何があるかも知らずの五里夢中の時であり、唯一知った同じ屋台店で毎晩2週間にわたり、気に入った同じ焼きそばを食べ続けていた。ついに食あたりになり、ひどい腹痛に陥り、仕事を数日休まらざるを得なくなった。この食痛の洗礼をうけ、その後は熱帯のバイキンに対しての免疫を獲得するようになる。
このオーチャード通りの駐車場兼屋台村は、後になり大型のショッピングモールが出現し、2000年以降、ユニクロ、東急ハンズ、ドンキホーテや、日系の飲食店などに変身している。
オーチャード通りの裏手には、ISTANA(大統領官邸)の 40ヘクタールもの森が背景に見えている。現在は高層ビルで覆われ、もう見ることは出来ない

オーチャード通りに隣接した駐車場。夜になるよ野外屋台村に大変身。
https://www.sassymamasg.com/ より転載