ブラジル長期滞在の記 #3/15 サンパウロ#3 事務所の仕事

ブラジル長期滞在の記 #3
サンパウロ #3
事務所の仕事

海外渡航、1962年

仕事とボランティア

早稲田大学建築学科の吉阪教授がサンパウロ訪問
外務省の委託を受けてサンパウロ領事館の候補地の検分に来られた。
敷地は高級住宅のモルンビ地区の丘陵地で緑豊かな場所にあった。
小生も教授のかばん持ちで、同行することになった。

Sociedade Esportiva Palmeiras
(ブラジルのプロサッカークラブ)

パルメイラス スポーツ クラブから事務所に発注された⼤型サッカースタジアムの設計を担当した。
当時は1964年の東京オリンピックが開催される直前で、サンパウロのスポーツ関係の要⼈たちが訪⽇し、ブラジルに帰国してから戦後の⽇本の復興の輝かしさを、盛んに語っていて、在ブラジル⽇本⼈として誇りに感じたのを思い出す。

スポーツクラブ建築現場 1965年 筆者撮影

建設中のパルメイラス スポーツ クラブの観客席部分。打ち放しのコンクリートの重量を⽀えるために、圧倒的な量の⽊材を整え、コンクリート打ちの型枠と⾜場の⽴ち上げている。熱帯⾬林、⽊材が豊富なブラジルならではの⼯法である。

オフィスビル A.

筆者作図

作成したスポーツクラブのプレゼンテーションの図面。

サンパウロの住宅。

筆者作図

サンパウロの住宅のインテリア。

筆者作図

オフィスビル B

筆者作図

都市計画マスタープラン 

都市計画マスタープラン図, 筆者作図

孤児たちに手を差し伸べる教会の神父。

日曜日のとある日、カトリック教会の神父さんが、ある依頼をもって小生のアパートに訪ねてきた。用件は、すでに確保してあるサンパウロ市の郊外の土地に、孤児院の設計をボランティアで頼むということであった。

そのころ、ポルトガル語は日常生活には困らないほどに上達し、ブラジル生活にも慣れてきたころだった。

週末は友人たちと、探検と称してハレンチな罪深きところにも出入りしていた。罪滅ぼしのために、この奉仕の仕事を即決で参加することにした。早速、サンパウロから30キロほどにあるその敷地に検分に行った。

そこには数十人の幼児から十代前半の孤児達が、小さなあばら家に肩を寄せ合って住んでいた。そこでブラジルの典型的な人種のルツボを目の当たりにすることとなった。

金髪で皮膚が黒人並みの子、白い肌で縮れた黒髪の子、日本人の顔をした色の黒い子、その中間の混血の子たち。

これらの子達はみな生みの親から捨てられてしまったのだ。

サンパウロに帰って数週間の週末を使い、図面と模型を創りあげ神父さんに提出した。

孤児院の建築模型

当時の製図⽤具たち

1960年代コンピューターのない時代は、鉛筆で下書きし、その上から下写真のような、烏⼝や⽂字定規を使い、インクで清書をするのが製図の⼿法であった。このような⼿法で⾼級感のある図⾯を作成することが⽇課であった。

修正する場合、カミソリの刃でトレーシングベーパーをはつって⾏う原始的⼿法。

雲形定規

烏口。

ドイツ製烏⼝

製図道具のセット。(写真下)かなり使いふるしている。

ドイツ製烏⼝とコンパス

アルファベッドの文字定規。      

⽂字書き定規

まだ計算には、まだ電卓もない時代であり、⼿動計算機を使って⾏っていた。

⼿動計算機

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