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ミャンマー旅録 1993
#2/5
マンダレー
ミャンマーの内陸へ
1993年10月、ミャンマー・ヤンゴンに仕事で駐在している仲間達と、陸路往復約1500キロ以上のミャンマー中部、マンダレーとバガンやメイミョーに行く計画をたてた。

ガソリンは配給制
当時のミャンマーは、国際社会から制裁をくらっている最中で、半分鎖国のありさまであった。そのため、極端に石油が不足していて、車に入れるガソリンが配給制の状態にあった。
ヤンゴン・マンダレー・バガン間の道路には、「途中に給油施設がない」とのことを聞いて信じられないことであった。
ガソリン入りのドラム缶と共に
さてどうするか︖解決方法は、次のようになった。車はセダン車とワゴン車の2台で隊列を組んで走行する。ワゴン車の後部に、往復するに充分な大きさのガソリン入りのドラム缶2本を積み、走行途中必要に応じて2台の車に給油をしながら、往復するという案であった。
この国の二大都市、ヤンゴン・マンダレー間を結ぶ交通手段は、他に年代物の飛行機か19世紀的な鉄道があるが、いずれもマンダレー到着後の不便さを考えると車に頼らざるをえない。選択肢は、ガソリン入りのドラム缶2本を積み、危険と隣り合わせの未曾有の経験を選択した。
この計画に現地の政府高官の娘さんとそのボーイフレンドが参画することになり、ガソリン配給のクーポンを集めてもらい、燃料配給問題が解決した。彼らはセダン車で、我々外国人組は、ガソリン入りのドラム缶と共のワゴン車であった。
朝日を浴びる純白の仏塔
ヤンゴン出発は、真夜中に近いころであった。翌日の午後には、マンダレーに到着の見積もりである。
翌朝、うっすらと日が開けた頃には、車は2つの山脈に囲まれた一面緑の平原地帯を走っていた。朝日が登り彼方に白い一棟のパゴダがくっきり見えてきた。
「緑の平原に、真横からの朝日を浴びる純白の仏塔!」この光景は人の美意識を刺激するのに充分なほど美しかった。
パゴダの形状は、横から陽光があったた時、最も美しく見えるように計算され造形されているのだ。
マンダレーのホテル
マンダレーの旧王宮は、立派なお堀で囲まれている。
その南側のお堀端にある下写真のようなゲストハウスに投宿となった。
植民地時代には、たぶん高官の邸宅であっただろう。

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
バルコニー下の持ち出しは、
立派な無垢のチーク材が惜しげもなく使われている。

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
ホテルの中庭

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
あまりホテルゲストもなく、閑散とした受付兼ロビー。
旧型テレビがアクセント。

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
木製の階段。チーク材が潤沢に使われている。

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
ゲストルームの壁には、室内外一体のエアコン。ちょっとうるさいが、まあいいか、無いよりましだ。

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
ホテルの敷地の外に、道路・堀・王宮の茶色い城壁がある。

マンダレーのホテル 1993年 筆者撮影
マンダレー王宮
マンダレーはヤンゴンの北、約700kmのビルマの国土のほぼ中央に位置する。バガン地方も含めて、イラワジ川中流の乾燥した平原地帯である。
マンダレーは、英連邦軍の侵攻を受けるまで、短い期間(1860~1885年)ビルマ王朝の首都であった。1885年の3回目の英国とビルマの戦争で、ビルマ側が負け、英領インドの一州となり、 1937年の日本軍占領まで、英国支配が続いた。

マンダレー王宮と市街地 グーグルマップ
第二次大戦中、ビルマから中国への物資供給ルートを絶つため、日本軍が侵入し、英軍を排除しマンダレーを占領し、王宮も管理下にはいった。1945年3月に英軍がマンダレーを再占領するに先立って、王宮内は激しい爆撃にさらされ、チーク材の王宮建築と貴重な文化財などは完全に焼失した。

旧マンダレー王宮 平面図
ミャンマー独立後、30数年がたち1980年代になって、破壊された王宮のレプリカが再現された。以下に見る1993年の写真は、再建後10年ぐらいの新しい宮殿である。困難な再建仕事であったであろうが、歴史の深みを喪失したレプリカの宮殿を見学することになった。

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影
王宮の中心部。背景にマンダレーヒル。ふもと右側に2つの有名な仏塔が見えている。

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影
マンダレー・バガンの旅行に同行したミャンマー政府高官のお嬢さんとボーイフレンド。われわれ旅行者以外、外国人もミャンマー人の観光客もいません。

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影
独立一本柱。

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影
ドア枠周りの彫刻のデザイン。

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮のレプリカ 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮 1993年 筆者撮影

旧マンダレー王宮 1993年 筆者撮影
マンダレーヒル
海抜203mの小高い丘陵で、この丘を基点にしてマンダレー王宮と市街地が形成されたといわれている。 マンダレーヒルとその周辺は、 ビルマ仏教の聖地として、2世紀にわたり沢山の巡礼者を受け入れてきた。

マンダレー王宮とマンダレーヒル
3つの宗教建築
標高 236メートルのマンダレーヒルのふもとに建設された。右手にKuthodawPagoda、左はSanda Muni Pagoda、左奥にShwenandaw Monastry が見える。背景の緑の樹木は堀の内側のマンダレー王宮である。その遠方にマンダレーの市街地が広がっている。

2つのパゴダ
右がKuthodaw Pagoda、左にSanda Muni Pagoda

Kuthodaw Pagoda
基壇の上に建つパゴダは、57mの高さ。パガンのShwezigonパゴダを模して建てられたといわれている。 英軍侵攻の後、マンダレー宮を含めこの一帯は、ビルマのの人達が立ち入り禁止になった。その間に国宝の貴金属が、占領軍によって略奪を受けたとある。
Sanda Muni Pagoda
1874年、暗殺された王族の家族を偲んで建てられた仏塔であるという。
Shwenandaw Monastry
1878年にマンダレー王宮から移設された僧院。そのため王宮の爆撃による火災を免れた。この建物が、唯一旧王朝で生き残ったオリジナル遺産である。

マンダレー市内の様子。
市街の中にも伝統的な地域の特徴をもった村落風の街区がある。
住宅の前にワークショップがあって、そこで木工や金工を行っている。

1993年 筆者撮影
木造のお店と竹垣。周囲の自然と良く調和し、この近隣の散歩道は心地よい。ところどころ道端に、チークの丸太がごろごろ各所に置かれている。こうして天然乾燥させているわけだ。貴重な建材の基であるが、盗難の恐れがない様子だ。このことから、近隣の自治と治安が良く保たれていることがわかる。平和でサステイナブルな住区である。

1993年 筆者撮影
若い金工が、伝統的な彫金にいそしんでいる。
こうして伝統技能が伝わってゆく。その仕事場を見学することが出来た。

1993年 筆者撮影
出来上がった黄金の仏像が、土間にごろんと置かれている。芸術的な作品だ.

1993年 筆者撮影

1993年 筆者撮影
マンダレーから東北方面の高原地帯に行く
メイミョー
マンダレー市街から平地を東方面に15キロほど車で行くと、シャン高原のふもとに達する。この地点から九十九折の道路をひたすら登り、海抜1000mのメイミョーに至る。この町は植民地時代に造られた英国人の避暑地で、有名な植物園がある。ここを訪れるのが目的であった。距離にして70キロぐらいである。
九十九折の道路の上り切ったところに僧院があり、そこで休憩をすることにした。そこからの下界の眺めがとても良く、ベンチにすわって、そのすばらしい眺望をボーット楽しんでいた。
パスポート紛失の危機!
そこからまた車で再出発をして、3分ぐらいしたころ、かばんをベンチに置き忘れたことに気づいた。かばんの中にはパスポートやクレジットカード、航空券、財布などが入っている。あわてて引き返した。そのベンチには、もうすでにかばんはなかった。
パスポートの再発行には、ヤンゴンの日本大使館に出頭し、手続きにかなりの日にちを要するであろう。ミャンマーに最低1-2週間留め置かれ、仕事のスケジュールに影響が出るであろう。こういう時には、頭が真っ白になり冷静な思考が出来なくなる。僧院の中にいた何人かのお坊さんに尋ねるも、皆そんなかばんなど見たことがないと言う。
旅の同行者であるマレーシア籍の友人は、この僧院のどこかにかばんが隠されていると見ていた。交渉の過程で、僧侶たちが現金と引き換えが、かばんを引き渡す条件だということがわかった。その通りにすると、仏像の台座から僕のかばんが出てきた。まさか仏教のお坊さんが、このような手に出てくることは、想像を超えていた.
パスポート紛失の危機に遭遇したのは、ヨーロッパでの2回を含めて、これで3回目であった。多いに反省をしなければならない︕
ミャンマー連邦共和国
ミャンマーは多民族国家である。人口の6割がビルマ族であり、ここマンダレーからヤンゴンに至る肥沃な平原で暮らしている。平原の周辺は高原や山岳地帯で、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ロヒンギャ族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族に囲まれている。
少数民族には、キリスト教や回教など異なる宗教を信奉するものも多い。少数民族は民兵組織をそれぞれ持ち、半独立の気風があるので、連邦政府の統治を難しくしている。
ヤンゴンの中央市場で購入したお土産品。下の台にミャンマーの10種族の名称がスタンプでおされている。

日本ではバブル絶頂期の夢がまだ冷めず余韻のあったころ、ミャンマーは東南アジアのしんがりをようやく動こうとしていた。
写真 筆者撮影 1993年