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東ジャワ州農村地帯とマドゥラ島
1983年

高原の避暑地から山間地へ移動する
リゾートの市場の近くには、下のような馬車が常時待機して客待ちをしている。タクシーなどはない。メーターなしなので言葉の問題もあり、外国人には仕切りがとても高い。

筆者撮影 1983年
高原の馬車タクシーたち。

筆者撮影 1983年
高原の子供たち。

筆者撮影 1983年
二頭牛車 !!

筆者撮影 1983年
久しぶりの乗馬!!

筆者の通訳兼運転手さん撮影 1983年

馬上に通訳兼ドライバーの人 筆者撮影 1983年
東ジャワ州農村風景
ジャワ島は、火山灰による豊穣な土と豊富な水により物成りが豊かな島である。東ジャワの平地には三毛作の水田やサトウキビ園があり、高地にはコーヒー、クローブ、タピオカ、果実等様々な農産物を産出する。日本の里山の光景だ。

筆者撮影 1983年
筆者が求めた谷間のジャワコーヒー
通訳兼ドライバーさんと、地図に路がないような起伏の多い農村地帯に入り込んだ。すると谷間の小川の橋の横から、香りの良いコーヒーの匂いがしてくるではないか!そこには番屋のような仮小屋があり、中をのぞくと農婦が一人、薪の火でコーヒーを沸かしていた。あまりにも良い香りだったので、一杯のコーヒーを所望した。この田舎の真っ只中のおいしい飲み物の対価は、一杯5円であった。

筆者撮影 1983年
マゼランが探し求めていた憧れのスパイス。
この地はクローブの植林も盛んである。モルッカ諸島原産の丁字(ちょうじ)のつぼみが開花する直前に摘みとり、日陰干しをして乾燥させ、スパイスとして利用される。商品価値が高い産物である。クローブの元来の生息地であるモルッカ諸島をめざして、ポルトガルもオランダも覇権を争ったほど、ヨーロッパが料理に必要とした香料の元であった。

筆者撮影 1983年
インドネシアでは、クローブを混ぜたクレテックというタバコが喫煙者の好みにあい、広く販売されている。火をつけ燃えるとパチパチ音がし、闇夜では線香花火の感じになる。クローブは、一種の麻薬効果があるといわれている。これを混ぜた紙巻タバコは、煙のにおいがきつすぎ、インドネシア国外ではあまり見かけない。クローブを手摘みする農民。
筆者は、別の機会に同じ東ジャワのクデリ(Kederi)という町を訪れたことがある。そこにはインドネシア煙草の巨大な工場があった。従業員は300人以上で、ほとんどが女性であった。オートメ化されていない手作業で物を作っていた時代である。

クローブを摘む人 筆者撮影 1983年
タピオカ芋の栽培農婦と会話する筆者の運転手。この東ジャワの農村部まで入り込むと、お互いの会話は標準語のインドネシア語ではなく、「ジャワ語」になる。ジャワ語を話せない人は余所者と認識される。

筆者撮影 1983年
タピオカを乾燥させています。

筆者撮影 1983年

筆者撮影 1983年
右端の車が筆者が常用していたフォルクスワーゲン・コンビ。
横に通訳兼ドライバーの人。

筆者撮影 1983年
ジャワ島の一般的な農家の家。

筆者撮影 1983年
ドライバー(左)が路に迷い地元に人に路を尋ねています。(GPSのない時代)

筆者撮影 1983年
農家軒先の牛、羊、犬たち。

筆者撮影 1983年
運搬は牛によって行なわれ、トラクターや農機は使用されていないので、のどかな農村世界が保たれている。空気汚染なし、騒音なしの暮らしである。

筆者撮影 1983年
昼間の仕事を終えた動物は、里山のふもとからの湧き水で農婦によって洗われ、家族の一員のように大切に扱われている。

筆者撮影 1983年

筆者撮影 1983年
ブランタス川
この川は東ジャワ火山群の山塊を4分の3廻り、海に注ぐ珍しい流路を持った川である。左側は下流でスラバヤ方面、上流右側は山地からの多くの渓流を集める。上流30kmほどのBlitarという小さな町にスカルノが眠る記念墓地がある。この川の中流域にマジャパヒット王国が生まれた。

筆者撮影 1983年
マドゥラ島へのフェリー乗り場
インドネシアの第二の都市スラバヤのホテルやショッピングモールの複合施設設計のプロジェクトを1980年初頭に受注した。そのため4年以上にわたり、スラバヤを頻繁に訪れることになった。
滞在中まず気がついたのは、スラバヤの沖に海峡を隔てて島があり、それがマドゥラという島だった。ジャワ島の東北の端に、くっ付いたようにある島だ。フェリーで渡り,車で周遊したこのマドゥラ島は、まっ平らな島で、火山が沢山連なるジャワ島に比べて、景観が極めて単調であった。
600万人のマドゥラ人が住み、特別な産業も無く、大勢の出稼ぎ人が、スラバヤをはじめジャワ島やボルネオ島に移住している。スラバヤの人力車夫や土木工事の人夫のほとんどがマドゥラ人であるとのことだった。スラバヤの大半のジャワ人は、彼らに対して固定的な差別意識を持っていた。
下の写真は、マドゥラ島に渡るフェリー乗り場での光景である。1990年代になって両島間に橋が架けられたので、このような乗り場の雑踏は今は見ることが出来ない。
沢山の荷物を持ち下船して来た人達。

1983年 筆者撮影
左端のおじさんは、汁そばを作り売っています。中央は筆者と東京からの友人。

1983年 筆者ガイドさん撮影
FUJI FILM の看板がありますね。(アナログの時代です)

1983年 筆者撮影