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ヨーロッパ周遊
4ヶ月 #9/9
1968年
ヘルシンキから横浜まで8日間の旅
ヘルシンキ滞在 1968年 11月11日から15日まで
11月15日 夕暮れ、ヘルシンキ駅をモスクワ行きの国際列車で出発。
11月16日 早朝、モスクワ駅に到着。ホテルにチェックイン。
11月18日、モスクワのホテルをチェックアウト。空港に向かう。
11月19日 昼頃、ハバロフスク着陸。
11月21日、ナホトカ着
11月23日、横浜入港。

ヘルシンキから夜行列車でモスクワに行く
20世紀前半のフィンランドの著名な建築家エリエル・サーリネン(ERIEL SAARINEN)設計のヘルシンキ駅を出発、レーニングラード(現ペトロスブルグ)経由でモスクワへ向かう。ナショナル・ロマンティズム建築と呼ばれるフィンランドの民族主義を前面に押し出したデザインのヘルシンキ駅は重厚であるが、冷たくはなく、利用者に語りかけるものは明らかにドイツや他の北欧諸国のそれとは異なったものと言って良い。
列車の窓から外を眺めてみると、市内の海辺の入り江はすでに氷結していた。ソ連に向かう列車の窓からは、真っ白な平原、雪をかぶった灰色な落葉樹林、雪化粧したまばらな針葉樹林。あるかないか点在する雪で白くなった家々を見ていると、小さな首都ヘルシンキはすぐに無くなり真白な世界となった。
国境でトラブル発生
夜のとばりが降りてしばらくすると列車はフィンランドとソ連の国境に近くなったらしく、パスポートの検査が行われた。ここで思わぬトラブルが発生したのだ。入国管理官は、しばらく筆者のパスポートを見た後で旅券を取り上げ制服のポケットに閉まったのであった。パスポートを戻すよう英語で掛け合ったが埒があかない。しばらくやり取りを行った後で分ったことは、彼は英語が話せないどころか読解も出来ない様だった。
同じ寝台特急コンパートメントに、日本人の大学教授が乗り合わせていた。パリに滞在していた人で、フランス語で入国管理官に掛け合うと、彼はフランス語なら解るようだった。当時の国際的なパスポートは、有効期限が5年が普通である。筆者のパスポートは1962年の発行で、日本に帰国するまでの有効期限は定められておらず、つまり無期限有効であった。その旨フランス語で伝えてもらうと、かれは持ち場を離れ筆者のパスポートと共に他の車両へ消えてしまった。
一瞬、誤解による不法旅券所持でシベリア送りで収監などの最悪の事態を想像してみたりしていたが、しばらくして、例の入国管理官は戻ってきて入国承認のスタンプが押されたパスポートが筆者の手に戻された。たぶん英語のできる上官のもとへ相談に行ったのだったろう。こうして最悪の事態は避けられた。この国では、如何に外国人に対する猜疑心が強いかがこの件で良く分かった次第だ。
当時1968年ごろは、日本とヨーロッパを結ぶ渡航幹線はシベリア経由であった。乗客の中には、学生、会社員、前述の研究者である大学教授などあらゆる階層の日本人がこのルートで旅をしていた。
モスクワ郊外の車窓風景
真白な地平線から赤い太陽が昇っている。列車はモスクワの郊外辺りを走っているらしい。きめの粗い集合住宅や家屋が車窓の外を通り過ぎてゆく。
機械的な住ブロック群の配置と、画一的な窓などの開口部、ヒューマンスケールを超えたその大規模さ。ソフト(質)よりもハード(量)を重視。
ここにソヴィエトの住宅政策を見た気がした。
列車の窓からは、黒い厚着と毛皮帽子の通勤者の列。一面の雪世界の中、一列になって歩いているのが滑稽に見える。
彼らは道に当たる所を歩いているのだろうが、こちらから見ると市民の列が兵隊の様にみえるのだ。全体主義国家の風景である。
モスクワのホテルにチェックイン
ロマノフ王朝時代のヨーロッパ風の建物。
その国有建物の中で働くホテル従業員は、ソ連共産主義の国家公務員である。
インツーリスト(国有旅行会社)で働く英語ができる可愛いお嬢さん。
フロント・ロッカー係の体格の良いガードマン。郵便局のお兄さん。
両替所のおばさん。そして床の掃除をしているお姉さん。
人間に対してのサービスよりも事務処理の方に注意を払っている。
外国人旅行者に対する各種のチェックが幾重にもあり、そのため事務処理は複雑そうで時間がかかり大変そうだ。
しかし人間は人懐っこく、西欧と同じようなヒューマンな感じがチラリとのぞく。決して人当たりは良いとは言えないが。
航空券発給事務所での出来事。
インツーリスト(国有旅行会社)の事務所で、ヘルシンキですでに購買ずみのアエロフロートの再受付チェックインが朝9時から行われた。
そしてさらに午後4時にリコンファームが行われる。
つまり午前9時から午後4時までは警察の再々チェックが行われているらしい。こう言った一連のプロセス状況のなかで、時間がかかるといって事務担当の女性にくってかかる日本人がいる。つたない片言の英語で若い女性に、きつく当たっている。ここはもう西欧ではなく、共産全体主義国家なのだ。
日本人は西欧を崇拝してきたので、西欧のやり方が世界で一番良いものだと思いがちである。西欧は世界の一地域なのであり、他に異なった風土、文化や社会のある地域を認めたがらない。
日本も西欧とは風土、文化、歴史が違った世界の一地域であるが、明治以降西欧的なものに近づこうと一生懸命努力してきた。だから自分たちが求めてきた西欧的なものに当てはまらないものがあると、意外な感じを抱き、猛烈に西洋的な便利さ、サービスを要求する。そんなことをして、旅行社の女の子を困らせるより冗談を飛ばして彼女からスマイルを引き出した方が楽しく健康にも良い。
クレムリンと赤の広場
パスポートはホテルに管理され留め置かれているのであまり遠出はできない。
街中で運悪く警察官の職務質問にあった場合、身分を証明するパスポートが手元にないので、極めて不利な状況に置かれる。
外国人旅行者が、国が見せたくない地区や場所に入り込めない様にする仕掛けである。とにかく自由がない国家といえよう。
クレムリンと赤の広場は、近くにあったので徒歩で行ってみた。クレムリン宮を囲む赤い壁や見張り塔は、建物のスケールを超えていてまさに要塞と言うべき土木建造物であった。この国の中枢は、人民や地方部族など敵対勢力の襲撃から守る、防御最優先の要塞の歴史的な産物であったと言って良い。
モスクワで一番と言われるホテル
モスクワで一番と言われるホテルに入り昼食をとることにした。外国人の入れるところと入所禁止の所の区別がはっきりとしていた。
入っていけないところは厳しく入場を拒否される。
入場が許された外貨が使えるレストランでステーキを注文した。ステーキはゴム草履と言ってもよいほどナイフをはねつけ、咀嚼には苦労をした。
ホテルの外観は巨大で威圧感がある。
ソ連ではどうしてこんな建築しか出来ないのであろう。
内部の機能的でない動線、そして狭い階段など、ホテルに壮大感を持たせるための犠牲の結果としか受け止められない。
時差が7時間
モスクワからハバロフスクまでは時差が7時間もあります。
このフライトの特徴は窓の外の地上が雪で、行けども行けども白一色であったことです。シベリアの地上の景色は変化なし、時差だけが刻々と変化あり、不思議な体験をします。
現在のロシアの飛行機はエアバスやボーイングばかりですが、当時筆者の乗ったソ連国営アエロフロート航空の機材はツポレフやイリューシン製を使っていたのです。巡行高度に達すると、機内圧が充分でないのだろうか?窓枠の隙間から機内に水蒸気が入り、室内の空気に温められ、水滴になって窓の下枠に溜まってゆく、という様な恐ろしい経験を強いられた。
このフライトは国際線ではないので、途中主要都市に止まりながら運航しています。そういった地方都市からは、日本の終戦直後に見られた様な担ぎ屋のおばちゃん達が野菜などを担いで乗ってきます。
背負っている荷物が大きいので、機内は一時混乱します。
ソ連は国土が広く流通インフラが整っていないので、こういった個人の担ぎ屋物流が存在しているのだと思った。

ハバロフスク到着 緊迫の国境
ハバロフスクで飛行機の旅は終わり、ここからは鉄道で日本海のウラジオストックに向かう。利用したモスクワからのフライトは、国内線であるので、パスポートの検査もなくすんなりと到着ロビーに入る。そこには驚愕すべき光景が待っていたのだ。
到着ロビーには鉄格子がありだだっ広いロビーが二分割されていたのだ。
その鉄格子の向こうには戦闘服を着て銃を抱えたソ連軍の兵士達が密集していた。
屋内でしかも空港のロビーに臨戦態勢の軍隊の密集を見たのは初めてだった。
中ソ国境紛争(珍宝島事件)ダマンスキー島
後になって調べてみると、1969年3月に黒竜江(ウスリー江)のダマンスキー島で国境をめぐり大規模な軍事衝突が発生したのだった。筆者がこの地域を訪れた時には、一機触発の状態だったのだ。
ソ連軍部隊67万人 中国軍71万人 がダマンスキー島をめぐって対峙していた最中であった。
ハバロフスクの宿
ここハバロフスクからはウラジオストックへの鉄道の出発は翌日であったので、空港敷地内の簡易宿泊所があてがわれた。
一階建ての兵舎の様な建物で、部屋はセメントむき出しの床に簡易ベッドがポツンとあるしつらいであった。
ハバロフスク市内を訪れる時間は充分にあったが、道路に出てみると雪原の中に見えたのは電信柱の列柱のみで、あまりにも殺伐としていて行動を断念した。夜は、とにかく寒いので待行していた寝袋に入って寒さをしのいだ。
ハバロフスク→ウラジオストック→ナホトカ
ハバロフスク→ウラジオストック間は夜行列車のスケジュールが組まれていた。一般的には、田舎の住民の家屋や建築を見ればその国の民度を推し量ることが出来る。ソ連のシベリア地方の風景を外国人旅行者の目にさらしたくないという一貫したポリシーが、この夜行列車の旅行行程設定の理由に見て取れた。
ウラジオストックに着いた。
街歩きはゆるされず、すぐ待機していたナホトカ行のバス便に乗せられた。ウラジオストックは極東の大都市なはずだが、外国人には見せたくないらしい。立派な不凍港なはずだが、軍港色が強く外国人に対しては警戒心が強いのであろう。
日本への連絡船が出港するナホトカに着く。
ここでは出国や税関の検査が行われる。手続きが煩雑で能率が悪く遅い。人扱いも酷い。何人かの邦人のグループがしびれを切らして騒ぎ出した。そこで死語となっていた「露助」という単語が頻繁に使われているのを耳にする。
元来「露助」はロシア人を示す語源ルースキイ(ルースキイェrusskij)から派生した言葉であるが、日本語ではロシア人の蔑称として使われる。皆、長旅の疲れがでていたのであろう。
こうして、我々は船上の人となった。船上一泊二日で横浜に到着できる。船内にはヨーロッパ帰りの若い日本人女性のグループがいた。
洋上のソ連の楽団
ナホトカから船は日本海に出た。しばらくして船内のサロンでパーティーの催しがあった。ロシアの楽団が音楽を伴奏していたが、なんとなくうら寂しく場末感もここに極まれりといったバンドのチームであった。ユーラシア大陸もここまで来ると地の果てか。
日本の明かりが見えて来た
甲板に上がると「あれが日本の灯だ」と誰かが言った。ああもう青函海峡か!
では陸地の一部の光が見えてくるはずである。黒々とした闇のうなもに列をつくっている光が見えてきた。それは連なる漁船団(多分イカ漁)の光であった。
今まで見たことがない異様な光であった。
今まで世界各地でいろいろな船に乗っているが、こんなに沢山のまとまった光の集団を見たのは初めてだった。
まとまった光は陸のものとばかり思っていたのだ。それが漁船のものとは!夜中に人工照明のもとでイカを追う。それも数十隻の船団が。これが海に生きる日本の姿だった。
朝になって甲板に出ると、三陸海岸らしき陸地が視界に入ってきた。
6年ぶりの日本の国土である。遠くに雪をかぶった山も見える。
三陸沿岸もノールウェー沿岸もリアス式海岸で、似たような地形をなす。
もしここがノールウェーであったならば、海岸近くまで白くなっていることであろう。ノールウェーのフィヨルドを繰り返し何回もフェリーで渡った。
海に迫る山々はその姿をくっきりと見せていた。それに比べ、三陸の山々は海が温かく水蒸気が多いため、ぼんやり霞んで見える。
気候条件が対称的なため、ノールウェーの山は神秘的な対象物になりえず、自然探求の対象であり、論理的な思考を育てたと思われる。それに比して、日本人は、論理による秩序はともあれ、情感的な人間関係に重きを置いた秩序を好む。霞んだ三陸の連山を見ながら自然の人間に及ぼす影響についてかんがえた。
横浜入港
去ること6年4ヶ月前、この港から海外に出て、またこの港に戻ってきた。
朝である。とにかく温かい。昨日まで、フィンランド、ロシア、シベリアの気候を潜り抜けてきたので、気候からして全く別世界だ。
ジャパンエクスプレスの荷物を運ぶ人達が船に乗り込んでくる。
皆さん同じような顔、同じ体つき、そして同じ制帽、ジャンパー、ズボン。服の汚れ具合も同じくらいであった。この6年間他民族の国々を渡り歩いてきたので、「単一民族日本」をあらためて再確認した。
パスポートの検査、税関、両替いずれも早くてどの国よりも能率的だ。
パスポートの検査官は、筆者の出国スタンプを見て、「ご苦労様です」と声掛けをして入国のスタンプを押してくれた。
国家公務員から「ご苦労様」と言われたのは極めて稀なことであろう。
タクシー乗車拒否
波止場を出てタクシー乗り場へ。そこで乗車拒否。
チップなしの国だが、乗車拒否ありの国、ニッポン。
乗車拒否はしないがチップを要求するパリの運転手。こちらの方が人間的だ。
ロンドンで短距離で利用したタクシーの運転手、ブツブツ言っていたが乗車拒否はしない。重い荷物を抱えてタクシーが正に必要な状況を見て乗車拒否をする運転手は、世界の都市でも稀なケースである。
横浜桜木町の喫茶店
どうしてこう狭いんだ!狭い。狭い。座るために椅子を引くスペースもない。まずいコーヒー、不味い。不味い。何回コーヒーに湯を注いでいるのだろう。
横浜から東京まで 電車の車窓から
どうしてこんなに建て込んでいるのだろう?一つの家が他の家の上に乗っかているのではないかと錯覚を起こすほどに建て込んでいる。
汚れたようなぼやけた外気。さらに汚れた家の屋根、屋根、屋根。
そしてほこりと雨のシミがあるモルタル壁のビル、ビル、ビル。
輪郭のハッキリしない木造家屋と板塀。乱立する看板につぐ看板。
統一が取れないことおびただしい。
太陽の下で光輝く建造物は何一つない。みんな腐って地面にへばりついている。
電車の中から
駅に止まると人がどやどやと乗ってくる。みんな良質な服を着ている。
ヨーロッパのどの都市で見たより上質な服装である。
しかし、どうしてこんなに色が単調なんだ?黒っぽい服に黒っぽいコート。
白いワイシャツ、そつのないネクタイ。若い女性は同色の口紅、同じようなアイシャドウ、まゆげ。ああ単一民族!!
上野駅
狭い。狭い。狭い。沢山の列車が集結するターミナル駅が、どうしてこう狭いんだ。パリは勿論なこと、ドイツやイタリアの櫛型の終着駅の広くて堂々としていること。こんなに人が集まる主要駅に十分なスペースを予定出来なかったことは、悲しむべきことだ。






