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シンガポールの黎明期
1970年代
#6/10
セントーサ島
1970年初期のハーバーフロント
シンガポール本島とセントーサ島との間にある狭い海峡の1970年初期の風景です。この海峡は、幅は2キロほどであるが、水深が十分なので大型船も進入出来る。

シンガポール・ハーバーフロント 1973年 筆者撮影
この海峡は、潮の流れが速いので木造小型船は、海底に打ち込んだ木杭の内側に収められる。

シンガポール・ハーバーフロント 1973年 筆者撮影
1980年代後半からインドネシア領、バタム島、ビンタン島との国際航路が実現。このハーバーフロントは、国際港として入国審査や税関が設けられ、個人所有のボート、民間営業の観光用の船などは、出入り禁止となった。
1970年当時は、まだ珍しかったファイバー製品の個人所有モーターボート。

シンガポール・ハーバーフロント
1973年 筆者撮影

シンガポール・ハーバーフロント
1973年 筆者撮影

シンガポール・ハーバーフロント,
1973年 筆者撮影
緑溢れるセントーサ島に砲台
シロソ砦(FORT SILOSO)。シンガポール港防衛のための砲台が置かれていた英軍の重要施設が、このジャングルの上にあった。

シンガポール・セントーサ島周遊
1973年 筆者撮影
懐に優しいハーバーフロント
セントーサ島に対峙したここハーバーフロントには、いつも数隻の木造焼玉船がスタンドバイしている。1970年代。船頭付きの一日ハイアー料金は当時で50ドルが相場であった。

シンガポール・ハーバーフロント,
1973年 筆者撮影
木造焼玉船(ポンポン船)
日曜終日 他の日本人駐在員の家族とワリカンで木造船を船頭付きで9時から5時まで貸し切り、シンガポールの外島めぐりやスクバ・ダイビングを楽しむ。当時はこの海域の埋め立て工事が始まる前で、沢山のサンゴ礁があり、熱帯魚も沢山泳いでいた。海流が強い海域でもあるので焼玉船に近くに漂っていてもらう必要があった。

シンガポール・セントーサ島周遊,
1973年 筆者撮影
観光開発される前のセントーサ島。人工物は完無。

シンガポール・セントーサ島周遊,
1973年 筆者撮影
週末に無人小島を独り占めする家族

シンガポール沖合の小島,
1973年 筆者撮影
マングローブ林に囲まれたシンガポールの離島
小さな砂浜を独り占めし、ピクニックをするシンガポール在住外国人の家族。

シンガポール沖合の小島
1973年 筆者撮影
打ち捨てられていたセントーサ島
セントーサ島は、従来ブラカンマティ島(PULAU BLAKANG MATI, マレー語で背後の死者の島)という名称であった。1880年代シンガポール防衛のため、島の西端にシロソ要塞を建設、海側からの進行の防止を目的とした。
1942年の日本軍との開戦で日本軍に陥落、1945年終戦まで日本軍に占領され強制捕虜収容所として使用された。
その後シンガポールが独立(1965年)すると、全島はイギリスから返還され、島の名称をセントーサ(SENTOSA, マレー語で静けさ)と改称して今日に至る。
道路は、長い間保全がなされず、打ち捨てられていた。

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影
未舗装な道路。打ち捨てられた建物。

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影
セントーサ開発公社(SENTOSA DEVELOPMENT CORPORATION)の看板。小さな看板が一つ、周りには人影もない。
セントーサ島の丘の上から、国際航路シンガポール海峡を望む。ここは東西海運の要の位置にある。しかしセントーサ島に渡る唯一の手段はボートによってであった。

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影
セントーサ島に残っていた旧兵舎の庭にあったブランコを独占!この贅沢さ!

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影
セントーサ島に残っていた旧兵舎の前で。他に人はなし、独り占め。

セントーサ島。開発前の状態
1973年 筆者撮影
セントサ島に残された旧英連邦軍の兵士宿舎
1968年イギリス軍がスエズ以東からの撤収をきめ、1971年にシンガポールからも撤退すると、数々の関連施設が残された。あるものは取り壊され更地となった後、コンドミニアムが建てられ、あるものは保存されリーゾート施設として再活用されることになった。
セントサ島の旧英連邦軍兵士の宿舎。1971年英軍の撤退によりシンガポール政府に引き継がれ、リゾートホテルなどに修復され使われている。

セントサ島の旧英連邦軍兵士の宿舎。1971年
英軍の撤退によりシンガポール政府に引き継がれた。
セントーサ開発公社(SENTOSA DEVELOPMENT CORPORATION)の看板。小さな看板が一つ、周りには人影もない。この時期を起点としてセントーサ島は大変貌を遂げることになる。(写真下)
初期のボートによる交通手段の次には、1974年、ケーブルカーラインが、シンガポール本島のマウントファーバーからセントーサ島1,6キロを開通させた。
セントーサ開発公社は、空気汚染回避のため、自動車をセントーサ島への入島禁止の政策をとっていた。
1983年、パナマで登録された石油掘削船のデリックがロープウェイの下を通過し、ケーブルにぶつかった。その結果、2つのキャビンが55メートルの海に沈み、7人が死亡した。この事件は、比較的災害の少ないシンガポールにとって、大きな出来事であった。

セントーサ島。開発前の状態 セントーサ開発公社
(SENTOSA DEVELOPMENT CORPORATION)の看板。
1973年 筆者撮影
花より団子
そのようなこともあって、気が付いたら道路橋が出来、セントーサ島へ車の乗り入れが可能になり、空気汚染の問題意識は立ち消えになった。花より団子となり、2010年「リゾートワールドセントーサ」内のシンガポール最初のカジノのオープン。続いてユニバーサルスタジオも開業して、巨大な駐車場が出来た。
緑に覆われていたセントーサ島は、観光開発資源からの収入の最大化ポリシーにより人工物の集積する島に変貌した。

セントーサ島。開発後の状態
2013年 筆者撮影
セントーサコーブ
このセントーサコーブは、2000年中頃一部完成。外国人でも土地付きの不動産を購入できる国内唯一のエリアということで、世界中の超富豪や本物のセレブが住む街になった。不動産価格はコンドミニアムは2億~、戸建は6億~30億円という我々庶民には全く縁のない世界となった。
戸建住戸には、プライベートクルーザーの停泊場が付いているものも多い。
次ページ。全住区埋め立てによってセントーサ島東部に完成した海外富裕層向けに開発されたセントーサコーブの地図。

セントーサ島。開発後の状態
セントーサコーブのプライベートクルーザーの停泊場付き戸建住戸群。2006年にインドネシア知人のデベロッパーが、個人用に購入したので、招きに応じ見に行った。
セントーサ島。クルーザーの停泊場付き戸建住戸 開発後の状態

2006年 筆者撮影