ブラジル長期滞在の記 #1/15 サンパウロ #1

ブラジル長期滞在の記 #1
サンパウロ-1

海外渡航、1962年

サンパウロ

サンパウロをぶらぶら、そして家探しと仕事探し

ボイスヴェイン号が、ブラジル・サントスに接岸した⽇は、⼩⾬がしとしと降りしきる⼣⽅であった。下船を済まし、ブラジルコーヒーを出しているコーヒーバーへ⼊った。そこでは、いろいろな肌をした⼈種が混ざっていて、活気があり、まさに⼈種の別世界であった。

慣例によりブラジル側の名⽬上の⾝元引受⼈に引き合わされ、正式にブラジル永住者の上陸⼿続きを終えた。過去直近の⼈種差別国である南アフリカを体験してきたので、この南⽶ブラジルの⼈種ルツボの現実を⽬の当たりにして、直感的にここブラジルでの仕事に対する意欲が湧き上がるのを感じることとなった。

サンパウロ移⺠局の上陸証明書

国連統計局による⼈⼝データ 

1950年東京1,100万⼈ サンパウロ 230万⼈ダッカ33万⼈
 コルカタ 451万⼈  
2010年東京3,600万⼈サンパウロ 2,200万⼈ダッカ 1,400万⼈ 
 コルカタ 1,500万⼈  

1960年代 サンパウロの⼈⼝は500万⼈,⽩⼈約半数、混⾎3割、他は⿊⼈インディオ、東洋系

1554年イエズス会宣教のための宣教村が起源である。

1600年代中ごろブラジル奥地探検隊バンデイランテスの根拠地。

1800年代中ごろからサンパウロ州コーヒープランテーシヨンのコーヒー⾖の集積地として発展する。

1800年ごろにはサンパウロは国内でも⼤きな都市となっていたものの、この時期のサンパウロは未だ⼀地⽅都市に過ぎず、⾸都リオデジャネイロとは⽐べ物にならない⼩さな都市であった。この状況が⼀変するのは、1830年ごろにサンパウロ州内でのコーヒー栽培が始まってからである。当初リオデジャネイロ周辺で⾏われていたコーヒー栽培が、地⼒の消耗などにより衰退し、適地を求めたコーヒー農家がサンパウロ州北部や⻄部に⼊植し、コーヒー栽培を開始した。サンパウロの気候と⼟壌にコーヒーは⼤変適しており、折からの産業⾰命によってヨーロッパでコーヒーの需要が爆発的に増加したことを受け、サンパウロはコーヒーの集散地として急速に発展を遂げた。

1867年にはサンパウロと外港サントスとの間に鉄道が開通し、コーヒー経済はさらに拡⼤していった。1872年にはサンパウロの⼈⼝は26000⼈であったが、1920年には58万⼈まで増加した。しかしコーヒーブームに沸くサンパウロでは、労働⼒が不⾜していた。奴隷制は未だ存続していたものの国内から厳しい批判に晒されていたし、奴隷労働は⽣産性が低く収益向上の⾜かせとなっていた。そこで他国からの移⺠の導⼊が検討され、1881年にはイタリアなどから移⺠が始まった。移⺠は船が着くサントスから列⾞でサンパウロまで移動し、ここで各地の農場へと割り振られていった。移⺠の中にはこの街にとどまるものもおり、また農場へ⼊植した者たちも、いくらかはふたたびサンパウロへと移住してきた。こうして、サンパウロは移⺠が世界中から集まる街となり、⼈種の多様化が進む。

サンパウロ市街地主要部地図

サンパウロ市の⼈⼝の半分程度が、ヨーロッパから移⺠してきた⽩⼈が占める。その⽩⼈のグループの中で、⼤多数を占めるのが、ポルトガル、イタリア、スペインからのラテン・ヨーロッパ系である。そのため、他の⼈種を含めて、ブラジルは世界最⼤のカトリック教国となった。⾔語は、最初に植⺠したポルトガルの⾔葉が、ブラジル全⼟で標準語となっている。英語は、ほとんどの⼈達の⽇常会話ではまったく無縁の⾔葉である。東京で習ってきたポルトガル語、街中では役に⽴たず、その後この⾔葉をなんとか会話に使⽤出来るようになるまで6ヶ⽉を要した。

1.        セー カテドラル

プラサダセー広場のセー カテドラル。1962 年撮影

プラサダセー広場のセーカテドラル。サンパウロの道路の基点。
1913年起⼯、1954年、400年祭にあわせて竣⼯。
未完のタワーの⼯事は1967年まで続けられた。
セー広場の周辺には、にぎやかでおいしいブラジルコーヒーを飲ませるカフェやピッツァリア、バルなどが沢⼭集まっていて、仕事帰りの団欒と息抜きにうってつけの良い雰囲気で、活気のある広場であった。

セー広場前のセーカテドラル サンパウロのシンボル. 1962 年筆者撮影

2.        ⽇本⼈街

リベルダーデ地区、ガルボンブエノ街

1908年には、最初の⽇本からの正式移⺠が笠⼾丸でサントス港に到着する。その後も続く⽇本⼈移⺠はサンパウロ州を中⼼に定着し、やがてサンパウロ市に⽇本⼈街を形成した。

サントスに上陸したその⽇に⽇系の⾝元引受⼈に付き添われて、その⽇のうちにサンパウロの⽇本⼈街に与えられた宿に泊まった。所持⾦はこの段階で40ドルになっていた。⽇本⼈街で知り合った⽇系⼈⼀世の⼈たちに誘われて、マージャンの賭けで⼿に⼊れたいくばくかのクルゼイロ(当時のブラジル幣貨)で、⽬の前の出費をまかなっていた。その後、サンパウロ在住の⼤学の先輩からの忠告もあり、⽇本⼈街を離れ、ブラジル⼈社会に⾶び込むことにした。⾹港で購⼊した免税の⼀眼レフカメラ、ムービーカメラ、スイス時計などを順次売り払い、今後の⽇本⼈が住んでいない地区に居を移し、ペンションの家賃や⾷費に当てるための現⾦に換えた。

1962年筆者撮影

3.        RUA DIREITA, 旧市街地

下。プラサ・ダ・セー広場とアニヤンガバルウーを結ぶオールドサンパウロの歴史ある⾦融街。ブラジルに滞在した期間は猛烈なインフレに⾒舞われた。毎⽉の給料はこの通りで⽶ドルに両替し、ある程度たまった所でフォルクスワーゲン購⼊の頭⾦にした。その後、⾞のローンを完了したところで、⾞を売り払い帰国の資⾦にするという算段であった。

駐⾞中の⾞のモデルに注⽬. 1962年筆者撮影 

EDIFICIO GUINLE 1912年に建築申請され、1916年に完成。(7階建てのアールヌーボー様式の建物)この建設は国内での鉄筋コンクリートの使⽤のパイオニアとされる。

EDIFICIO GUINLE

下。サンパウロの典型的な市街地

4.       サンパウロの交通のハブ

アニャヤンガバウー・バレー、当時サンパウロ最重要地域。VIADUTO DO CHA(⽇系⼈からは御茶ノ⽔橋と呼ばれている)の下から 1962年ごろ撮影した新市街の公共施設などのビル群。このあたりに市庁舎、オペラ座、⽼舗デパートなど主要な建物が建つ。 

VIADUTO DO CHA

1963 年筆者撮影

1963年 筆者撮影

ダイナミックなサンパウロ中⼼部 

⾞はアメリカ製のフォード、ドイツ製のフォルクスワーゲンが⼤多数

1963年ごろ筆者撮影

市街地の物売りと⼈々.

1963 年筆者撮影

AVENIDA SAO JOAO  全⻑5キロに及ぶ直線のメインアベニュー

正⾯にアルテーノアランテスビル。1947年完⼯。
サンパウロにある1960年まで最⾼層ビル。⾼さ161m、36階建て。当時はブラジルで4番⽬の⾼さのビルである。 

1963 年筆者撮影

5.        新市街地、共和国広場

このヘプブリカ広場と周辺は⼀⾒スタイリッシュな建物に囲まれているが、サンパウロの中でも特に治安が悪く危険度が⾼い。このあたりでは夜の⼥が徘徊していて、外国⼈観光客を狙った犯罪も起こっている。

1963 年筆者撮影

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