地球の裏側へ行ってみよう #2/3

地球の裏側へ行ってみよう #2/3
香港→シンガポール

海外渡航、1962年

ボイスベイン号搭乗記 2

横浜Jun11 神戸Jun17 香港Jun22/24 
シンガポールJun28/Jul02 ペナンJul06 
モーリシアスJul15 ローレンソマルケスJul20 
ダーバンJul22/25 ポートエリザベス 
ケープタウンJul30 リオデジャネイロAug08 サントス

赤道直下のシンガポールに上陸

シンガポールに接岸が近くと船のスピードが落ちて来た。朝になり目覚めて3等船室の丸窓から海面を眺めて驚いた。24年生きてきて、海の色は青と疑いを持たなかった。日本では 青かった海の色がココ赤道直下では緑色に変わっていた。
確かに僕は違った世界に来ている

12階建てのオフィスビル。ASIA INSURANCE BUILDING
1962年当時、シンガポールで一番の18階建 高層建物。筆者撮影

シンガポール港に上陸が許されて、この町の一番高い12階建てのビルの屋上に登ってみた。

眼下にはビルらしきものといえば、はしけの集まる河口付近に古ぼけた植民地独特の建物群のみがあった。 その他は、圧倒的に埋め尽くされた2-3階建ての赤い瓦屋根の海であった。

ASIA INSURANCE BUILDINGの右隣の植民地風のビル. 1962年 筆者撮影

1962年 筆者撮影

1962ー1966年 マレーシアとインドネシアが対立
1963年 マレーシアが連邦国家として成立。
1965年、シンガポールがマレーシアの連邦から追放される形で独立。

当時まだ英国植民地であった1962年のシンガポールは、後に首相になるリークアンユー党首が植民地支配を終えるための運動を開始しはじめた時期であった。建設中の建物は見渡した限りは完無であり、失業率は15%を越えていたころである。

1962年 筆者撮影

シンガポールが独立間もない1968年には、下写真の様な政府による公共住宅が既に完成し、入居が始まっていた。資源に乏しく、海上貿易の中継港に活路を見出すしかなかった当時のシンガポールとしては、公共住宅政策は国の治安を高め海外からの投資を呼び込むために必要な第一歩であり、後になってこの政策が実を結ぶことになる。

1962年 筆者撮影

1962年 筆者撮影

(下写真 友人のシンガポールの実家)なかなかの豪邸である。

1962年 筆者撮影

クアラルンプ-ル往復をジャガー車で

早稲田大学同窓で、留学生の友人がシンガポールに一時帰国していたので、船が3日ほど荷の上げ下ろしの停泊中に、シンガポールから陸路マレーシア・クアラルンプールまで車で往復旅行をすることに決定。

その陸路には幾つかの熱帯雨林から流れてきた川があり、そのうちも2つの川は橋がなくフェリーで渡った。茶色ににごった河であり、ワニがどこから出て来てもおかしくないような雰囲気だった。途中で水害や不測の事態でシンガポール港に定刻に戻れなかった場合、船は出てしまう。そういうリスクを犯してまでも未知の土地を知りたいという意志が勝っていた。

マレーシアを行く

マラッカ海峡の海辺で、野良仕事の合間に昼食をとる人達。ゆったりとした平和な光景である。

1962年 筆者撮影

マレーシアの田植え光景。

1962年 筆者撮影

小高い丘に登りマラッカ市街地を撮影。マラッカ海峡が遠景に見渡すことが出来る。

1962年 筆者撮影

クアラルンプールに至る

マレー鉄道・クアラルンプール中央駅。インド・ムガール朝風の影響を受けた駅舎のデザインが特徴である。(写真下)この鉄路をさらに北へ行くとバンコクに至る。

1962年 筆者撮影

マレー鉄道・クアラルンプール中央駅

1962年 筆者撮影

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