地球の裏側へ行ってみよう #1/3

地球の裏側へ行ってみよう #1/3
横浜→名古屋→神戸→那覇→香港

海外渡航、1962年

ボイスベイン号搭乗記 1

話は1962年当時にさかのぼる。海外渡航をするには、留学、業務および移住などの目的以外にはパスポートの発給がかなり制限されていた。当時発行されていたパスポートは使用一回限りであり、帰国すれば失効になる。そのかわり帰国までは使用期限なしというものであった。パスポ-との表紙は、やわらかな羊なめし皮で紺色の高級感のあるものであった。

その後1963年になると、外貨持ち出し1人1年500ドルの制限で、業務目的の海外渡航が出来るようになった。そして東京オリンピック半年前の1964年に海外旅行解禁になり観光目的の渡航が自由化された。日本は高度成長が軌道に乗り始めたさなかであったが、1ドルが360円の時代であり、ハワイ7泊9日観光は、大卒初任給の19倍、現在の物価にすると400万円だったそうな。

そういった時代の背景の中で、1962年時点の海外旅行決行の解決方法を探った。選択肢として、ブラジル移民枠でパスポートを貰うこと、限られた予算なので貨客船の3等船室で。これならば地球の最遠隔地まで2ヶ月間、さまざまな寄港地をたどりながら3食付で安価で行ける。

ローヤルインターオーシャンラインの航路。1962年。

国内での犯罪歴なしを証明する書類 千葉県警発行

健康診断書 原文はポルトガル語 医師の署名が要りました。

ブラジル移民に関しては、上の2通の証明書が必要でした。

2ヶ月の船旅の帰港地と日付けは次のようであった。

横浜Jun11 神戸Jun17 香港Jun22/24 
シンガポールJun28/Jul02 ペナンJul06 
モーリシアスJul15 ローレンソマルケスJul20 
ダーバンJul22/25 ポートエリザベス 
ケープタウンJul30 リオデジャネイロAug08 サントス

横浜出航の数ヶ月前、ポルトガル語を習うため、目黒駅東口近くのブラジル帰りの個人教師宅に足繁く通った。この小さな初期投資で、ブラジルに着けば後は何とかなるだろう。若い独身者の怖いもの知らず、といった決断であった。

ブラジルへの移民の歴史をたどると、1908年笠戸丸による正式移民開始、  1973年、移民船による移民廃止まで、 100年間で13万人の日本人が移住したとある。

横浜港大桟橋の移民船見送り

横浜を出航したボイスベイン号は、名古屋と神戸で荷積みをしたあと、途中で台風に遭遇しながら沖縄の那覇港に到着する。

沖縄では本土からより更に大人数のブラジル移民を船内に取り込み、にぎやかになる。まだ沖縄がアメリカの施政権下にあった時代である。この当時の本土の人々は、まだ沖縄の人達に対して、ある種の偏見が存在した時代であった。

ボイスベイン号の甲板は始めての外国

ボイスベイン号の甲板では、日光浴をしていた1等船室の乗客に、気後れしながら会話を試みた。今まで渋谷や六本木でアメリカ人の軍属と思われる人から英語で道を尋ねられた経験しかない僕が、つたない英語もどきを使って尋ねてみる。そのアメリカからの年配の著作家は、お供に20 才代の若い魅力的な秘書と一緒に、世界一周をしているとのことであった。なるほど聞いたことも見たことも無かったこういった人生もありなのかと、新鮮な驚きであった。

海からのアプローチした香港。この地が始めての外国

下の写真は、香港停泊中のボイスベイン号の甲板でとったものである。皆、20代前半で、ブラジルに夢を託して希望にあふれていた。ほとんどの男性は大卒で、女性の中には、呼び寄せ移民として花嫁になる人も含まれている。スマホやインターネットがなかったこの時代。それからすでに50数年、この人たちとは音信不通になっている。彼ら彼女らはその後どんな人生を歩んだろうか。

現在はビル群に覆われている、九龍側のダイアモンドヘッドがくっきり見える。ボイスベイン号甲板にて。

1962年 筆者撮影。

自由港香港の活用

船底の3等船室の我々は、外貨持ち出し制限があり、300ドルが上限であった。限られたそのお金を、どうやって航海中に増やすことが出来るのか︖ その答えは、免税自由港の香港を利用することだった。スイス製時計、日本製カメラとムービーカメラ、これらを免税で購入。ブラジル上陸後、この物品を売り払うと、倍ぐらいになるだろう、というのが目算だった。そのご香港島、北角のテーラーで、初めて背広あつらえた。この地区では、クルーザー客の為スーツをオーダーメイドで1日で仕立てる店が沢山あり、そのうちの1軒に勧誘されたのだった。店主からイタリア製のウールの生地を進められた。(真偽は定かではない)。仮縫いなしで仕上がったグレーの背広、満足。ブラジルに上陸後、社会人になった時の準備であった。

1962年 筆者撮影。

船上から海にコインを投げる白人乗客たち

海上に投げられたコインを、沈みきる寸前に素もぐりでそれらをゲットし、海上に顔をだしその成果を乗客に見せる香港の子供達。そして船客が拍手!これらの行為は香港停泊中のクルーザー船の恒例行事になっているらしく、船首にどこからともなく数人の子供が集まってきていた。このころの香港はとても貧しかった。

一方陸上では、香港島の中心街でホテルの残飯を回収し、山腹まで天秤棒で担ぎあげるクーリーを目撃した。その人達の後を追った。すると海岸地区の華やかさが一変し、とても貧しいバラック部落に行き着いた。見てはいけないものを見てしまい、招かざる経験をすることになった。

今は見ることがないジャンク船、背景は九龍側のダイアモンドヘッド

今は見ることがないジャンク船、背景は九龍側のダイアモンドヘッド。

1962年 筆者撮影。

1962年 筆者撮影。

ケーブルカー

1962年頃、香港には観光客はケーブルカーに乗り込んで香港島の山の上から下界を眺めるのが定番になっていた。上るにしたがって平地のビル群が下に遠ざかり視界がよくなってきた。

山の中腹に集合住宅の塊が緑に囲まれて建っているのを見過ごしながら上へ上へと昇って行く。

1962年 筆者撮影

裕福の階級ほど上、つまり標高の高いところに住んでいるのだそうだ。

1962年 筆者撮影

香港からも沢山のブラジル移民渡航者が乗り込んできて、三等客室は満員となった。ボイスベイン号は香港で積み荷の荷降ろし荷揚げを完了し、次のシンガポール港に向けて出発した。

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