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バリ島散策 #3/10
文化
バリ文化の源流、マジャパヒット王国
ジャワ島東部に東南アジア一帯を支配した王朝があった。このマジャパヒット王朝は1200年から1300年頃まで、ヒンズー教に基づいた統治を行った。日本で言うと鎌倉時代末期から室町時代までの約100年間である。
1981年にインドネシア、スラバヤで、7.5ヘクタールの土地オーナーからホテル、ショッピングモールの複合施設の建築設計を請け負う契約を交わした。
そのためプロジェクト進行中の3-4年間に20回程被地を訪れる機会を得た。スラバヤの近郊には、マジャパヒット王朝時代のヒンズー教の遺跡があり、その文化財を現代の建築に反映するというチャレンジをすることになり、週末ごとにそれらの遺跡群を訪れた。
復元前の東ジャワ旧マジャパヒット王国の Candi Tikus、現在は復元されている。

1981年 筆者撮影
16世紀のイスラムの侵攻以来、これらのマジャパヒット時代の王族、僧侶、職人たちがバリ島に逃避し、建築様式も伝えられ、その後バリの文化の重層性をかたち作るのに寄与したといえる。これらの東ジャワのマジャパヒット時代の建築遺跡に現在のバリの原型をうかがうことが出来る
村のはずれにある東ジャワ旧マジャパヒット王国のストゥ-パ。

1981年 筆者撮影

ジャワ島火山群の合間の平原を滔々と流れるブランタス川。
この平原の一角にマジャパヒット王朝が興り、最盛期にはインドネシア、マレー半島を支配下に置くまでに至った。その後 滅亡した。
東ジャワ州を滔々と流れるブランタス川、旧マジャパヒット王国のふるさと。

1981年 筆者撮影
旧マジャパヒット王国からバリ島への文化の移転。

筆者作図
バリ島の地形
バリ島は面積5,780Km2 、沖縄本島の約4.1倍そして千葉県の1.2倍弱の大きさになる。
東京、成田空港からは、直行便で7時間のフライトで、ハワイとほぼ同時間で到着できる。
島の東西に尾根があり、2,000m級の六つの火山のつながりから成り立つ。
その東端にバリ島で一番高い3,013mの活火山Gunung Agung(アグン山)がある。アグン山はバリヒンズーの崇拝の対象となっている。


筆者作図
火山島といえば、他にハワイオアフ島(1,545km2)エーゲ海のサントリーニ等(76km2)など、世界的に有名な観光地があるが、それらとサイズを比較するとバリ島は比較的に大きな島といえる。(上図参照)
バリ島やジャワ島はインド洋プレートが太平洋プレートにもぐり込んでいる。その結果形成されたこれらの諸火山から流れ下った溶岩や火山灰がこの島の骨格を形成している。そのことは空や海からアプローチする際に容易に判別し理解できる。
火山から生成されたカルデラ、そして外輪山の外に流れ出た溶岩や火山灰が、バリ島の地形の輪郭を形成している。
山々とその尾根を神々がいらしめる聖域とし、そこに発する水源から生じる川がほぼ円錐形の地表を流れ海に至る。川々が流れ着く下界の海は、不浄の域とされ、排出物、死の領域となされている。

筆者作図
その聖域と不浄域の中間が人間の領域である。山頂に発する肥沃な火山灰土、同じく山頂を源とする水脈、それらが形成する恵みの土地である。
こうした豊かな土壌、絶えることのない水脈、豊かな南国の太陽、それらの環境から形而上的なトゥリ・ヒタ・カラナ(Tri Hita Karana) という哲学が発生した。

筆者作図
トゥリ・ヒタ・カラナ(Tri Hita Karana) の独特な哲学
トゥリ・ヒタ・カラナとは、(三つのよいこと)といった意味だそうだが、その哲学は人と神との関係、人と自然の関係、人と人の関係を規定するバリヒンズー独特の哲学といえる。
人と神との関係においては、たとえば毎朝神々にお供え物をすること、定期的に祭り事を行うこと等である。
人と自然の関係では、自然環境との調和を旨とし、サステイナブルな開発を心がける。
人々どうしの関係においては、共同体を通して協調そして助け合いをすること等などである。
トゥリ・ヒタ・カラナの哲学を 「自然」、「建物」、『人体」にあてはめ、具象化したものが下のスケッチである。

筆者作図
スバック
スバックとはトゥリ・ヒタ・カラナを具現した古くから続く小規模水田(棚田)の灌漑システムである。各受益水田に用水を公平に分配する公益的な灌漑水利システムである。
オランダ植民地時代以前より今日まで、農民の自治組織により宗教的な儀礼も含めて耕作が持続的に運営されてきた。
潅漑用堰構造物、かなり大きい。

1981年 筆者撮影

1981年 筆者撮影
スバックとよばれる自然を利用した農業灌漑システムは、水路や堰を地元共同体が自治的に管理する。
また、村落や建物、個人家屋の空間構成等にもこの哲学が、広く影響を及ぼしている。
小規模な堰。
こういった施設がバリ島には無数にあり、各々の農民が自主的に管理している。

筆者作図
山々からの水流と湧き水が、火山灰からなる傾斜地を深く削り峡谷を造り出す。峡谷と渓谷との間にある台地には灌漑水路が網の目の様に流れる。棚田を含む水田地帯は、通年にわたり三毛作の稲田の風景を作り出す。
火山灰地をえぐった峡谷は、中腹では数キロの間隔で山から海へ、北から南へ流れる。
その南北に連なるゆるやかな水はけのよい台地の中ほどに道路が作られ、そして集落が形成される。

2000s年 筆者撮影
峡谷付近に残された自然林、台地に開かれた灌漑水と稲田、その稲田の中の集落、家屋、寺院、それらが一体となってトゥリ・ヒタ・カラナ哲学を地上に具現化している。
旅行者や外国人が、バリ島を訪れたときに目にする「ここだけにある風景」のミナモトは、こうしたバリ独自の哲学から形成されたものといえる。
ウブドのリゾートホテルの借景、棚田。

2000s年 筆者撮影

1981年 筆者撮影
ジャティルイの棚田 Jatiluwih rice terrace ユネスコ世界遺産

2000s年 筆者撮影
バリ島の村落「デサ」
バリ島に古くから存続する村落は、デサ(Desa)と称されている。
このデサという呼称は、地理的概念であるが、そこに住む人々のまとまりの概念でもある。
それは、宗教的まとまりでもあり、そこに住む構成員とその家族が、ある種の精神性を共有しているといえる。
そのデサの構成員は、デサアダットと称されるバリヒンズー教の宗教的シキタリに基づき、村の取り決めを行い、バリ独自ののカレンダーに沿って宗教的な儀式を行う。それに村民が自発的に参加する。
村落「デサ」のレイアウト
南北方向、カジャ・ケロッドの軸線に沿って村落が形成される。
カジャとは軸線の山側で、神々のいる上の方向でケロッドより標高が上である。
ケロッドとは軸線の海側で、カジャの方向より標高が低い。
カジャ・ケロッドの概念図。

筆者作図
「割れ門」Candi Bentar
村落(デサ)の出入り口には、「割れ門」Candi Bentar が設けられ、結界をつくり、村のまとまりを視覚的に形成している。
割れ門を抜けると、道は昔の日本の城下町にあるように鍵状に曲がり、その後まっすぐな道が集会所や市場などがあるデサの中心部にむかう。
村に入る道を鍵型にするのは、不浄なスピリットは直進はできるが、曲がることができないという性質を利用しているのだそうだ。これは一種の魔よけである。
このような配慮はバリの伝統的な家屋、屋敷の入り口にも設けられている。同様な例は沖縄の伝統的な家屋の入り口にも認めることができる。

筆者作図
その後、車社会になってからも、外部からデサに入るには、鍵型の部分で通常、寺院の塀や植栽などで視界がさえぎられるのでスピードを落とし、見えざる対向車に注意を払わなければならないような仕組みが、現代でも生きている。
下の図は、バリ島の集落を概念化したもの。

筆者作図
デサの中心部。
デサの中心領域には、公共のコミュ二ティーが設けられている。そこに村人が集まり、村の決め事をする集会所(バレ・アグン)、娯楽としての闘鶏場(ワンティラン)、買い物のための市場、そして寺院(プラ・デサ)や広場などが設けられる。
このデサの中心寺院のプラ・デサのほか、軸線の北側の標高の高い村はずれには、村の創立者など先祖を祭る寺(プラ・プセー)が設けられる。南側の標高の低い村はずれには、死者を祭る(プラ・ダレム)火葬場、墓地などが設けられている。
この3つの寺院を総称がKanyangan Tigaである。どの集落も基本的に3つの寺院を持つ構成になっている。デサの定義としては、Kanyangan Tigaを有する地域的、地縁的な村落共同体ということができると思う。
村の中心部に設けられる「共同体施設概念図」。

筆者作図
デサの中心部にある集会場。

2000s年 筆者撮影
デサの中心部にある闘鶏場。

2000s年 筆者撮影
バンジャール(Banjar)
バンジャールとは、デサに居住している既婚している男性がそのメンバーになった地域共同体。メンバーの生活のための法的、物質的、道徳的な条件を整え、村落の土地の相続、売買、使用権などの共同的な判断、合意などを行う。
スバックの基本理念に基づき、灌漑用水の公平な分配を協議しこれを行う。
各デサの人的あるいは制度的結束が強く、毎日お互いに挨拶をかわしたりまとまりがあるので、よそ者の侵入は容易でなく、犯罪は極めて少ない。
写真 筆者撮影 1980-2000’s