バリ島散策 #2/10 観光 (1982 年)

バリ島散策  #2/10
観光
1982 年

1982年、二度目のバリ島

初めてのバリ島旅行から4年後、1982年に再びバリへ訪れる機会ができた。
今回はいろいろお世話になっていたジャカルタ在住のK氏夫妻と一緒に行くことになった。当時のインドネシアの地方都市の空港は、ほとんどが国際空港ではなく、首都であるジャカルタで入国の手続きを受け、国内線に乗り換えてのルートであった。
現在のジャカルタ、スカルノハッタ空港が1985年に開港する以前で、国際便はハリム空港(現在は軍事用)で入国となり、そこからタクシーで国内線のカマヨラン空港(現在は廃港)へは、雲助タクシーに頼る移動を強いられた。

フライトはガルダ航空。初めてのファーストクラスで、なんと乗客は我々4人のみで独占となった。南国インドネシアの美しいスチュワーデス(当時はまだエアホステス乗務員をこう呼んでいた)のサービスをうけ、いたれりつくせりの1時間半の飛行となった。

まだ、シートベルトのサインが消えれば、タバコもご自由にといった時代であった。4人のうち3人は喫煙者であった。
1980年代の初めごろまでは、国際便の全席の肘掛には灰皿が備えられていて、離陸着陸体制以外ではいつでも喫煙が出来た。
その後、喫煙席はエコノミー席の最後列の一塊になり、ついに2000年ごろからは全席、トイレも含めて全機内禁煙となった。

初めてのファーストクラス

ジャカルタ発、ガルダ航空ファーストクラス 1982年

1982年 筆者撮影

初めてバリ島に訪れた時から4年ほどたっていたが、バリ島南部の海浜部、ヌサドゥア地域に国家による大規模開発の鍬入れが始まったばかりだった時期で、まだ観光客はそれほど多くはなかった。

空港からサヌールまでは、新しいバイパスが出来ていて、車もポンコツ車から新車が多くなっていた。以前と同じサヌールのハイアットホテルに投宿し、インドネシア製トヨタのSUVを運転手付きで借りて、島巡りをすることにした。

主要道路はすでに舗装されていて、昨今のような渋滞もなく、スムーズに動き回ることが出来た。いわゆる観光街道なるものも発生し始めたころで、お土産屋さん(現代風に言うと道の駅)なども出来始め、駐車場では日本語の呼び込みが、飛び交うようになっていた。

コウモリの洞窟 Pura Goa Lawah

サヌールから東海岸沿いに約1時間、40kmほどのところに、コウモリの洞窟のお寺、Pura Goa Lawah がある。(上地図参照)

ヒンズー教徒のパワースポット

この洞窟は30km先の聖なるアグン山の中腹にあるバリ・ヒンズー教の総本山寺院、ブサキ寺院(Pura Besaki)とつながっていると言い伝えられている。

数千匹のコウモリが、この奥の院の洞窟を住処としていて、洞中には巨大なヘビが住んでいると言い伝えられている。長い歴史と言い伝えがあり、ここはまぎれもなくヒンズーのパワースポットであるといえる。

いっせいにお祈りする地元のバリ・ヒンドゥー教徒。 Bat Cave Temple

1982年 筆者撮影

コウモリの洞窟

1982年 筆者撮影

洞窟入り口、数千匹のコウモリが洞窟に住む。岩肌が隠れて見えなくなるほどコウモリが密集している。

1982年 筆者撮影

トゥンガナン村 Tenganan Village

このコウモリ洞窟寺院からさらに東へ20kmほど行くと、三方山に囲まれた小さな村にたどり着く。トゥンガナン村である。

ここには、何世紀にもわたり住み着いている原バリ人の生活様式が村ごと残っていて、それをまとめて見ることが出来る村落である。

トゥンガナン村の地図

トゥンガナン村の公共スペースである広場。

1982年 筆者撮影

村の公共スペースである集会所。

1982年 筆者撮影

野外で鶏闘の準備をする村の男たち

1982年 筆者撮影

インドネシアの北端、スマトラ島のアチェに到達したアラブ商人によりもたらされたイスラム教が、16世紀にはジャワ島東端にまでその領域を広げ、全盛を誇ったヒンズー王国のマジャパヒット王朝を崩壊させた。その崩壊の前後から王家の一族、官吏、僧侶、職人などはバリ島に逃れることになる。

そのジャワ島からもたらされたヒンズー文化が、古来からバリ島にあったヒンズーと重層的に交じり合ったのが、今日のバリ島の哲学、宗教、文化を形成しているとされている。この16世紀マジャパヒット渡来以前のバリ人の集落を、今日まで継承してきた人々の村がトゥンガナン村である。

闘鶏は村人の娯楽である。

闘鶏の足に武器である剣を装置する。闘剣はいろいろな種類があり、セットにして大切に収納されている。鶏闘は村人にとっての重要な賭け娯楽であるのだ。

1982年 筆者撮影

村の伝統織物

村民が旅行者に説明している。

1982年 筆者撮影

トゥルニャン村 Trunyan Village

サヌールから2時間ほど島の中央の道路を登りきると、バリ島の主峰の一つであるバトゥール山(Gunung Batur)の外輪山に到達する。
海抜1300から1700mの外輪山に囲まれた1700mのバトゥール火山、海抜約1000mのカルデラ湖であるバトゥール湖を一望することが出来る。

外輪山とカルデラ湖

標高1300mの尾根にたどり着いた。結構寒い。
遠方外輪山のふもとにトゥルニャン村がある。

1982年 筆者撮影

遠方外輪山はいつも霧の中にある。カルデラ湖は絶景。

1982年 筆者撮影

1982年 筆者友人撮影

料金交渉

急峻な外輪山をガルデラ湖側に、いろは坂で300Mほど車で降りることが出来る。トゥルニャン村へは、その湖畔から対岸2kmほどで、小さなボートで行く以外は手段がない。村の背後には急峻な外輪山に囲まれているので、道路ではアクセスすることが出来ないためだ。したがって、このボートを提供する白タクに例えられる船頭達のモノポリーそのものだ。

バトゥール湖のほとりにて、対岸のトゥルニャン村へ渡るボートの料金交渉。

1982年 筆者友人撮影

1982年 筆者友人撮影

船頭の計画的犯行

料金交渉がまとまり、4人が乗船する。しばらく火山活動が作り出したカルデラ湖の景観を楽しんでいた。湖の中ほど1km程のところで突然エンジンが止まった。故障かなと思ったがそうではなかった。

4人の中には泳げない女性がいたので、ちょっとしたパニック状態。船頭が計画していた追加料金をせしめる予定どうりの筋書きだった。
お金を払ってトゥルニャン村の波止場に無事到着。

現在においては訪問者は格段に多くなり、料金表の大きな看板などが整備された波止場に表示されている。と同時に1980年代前半ごろまであった秘郷感は、うしなわれてゆく。

下界から孤立した村落 トゥルニャン村。

700mほどの高さの山塊を後ろに背負ったトゥルニャン村は孤立しており、湖からが唯一のアクセスである。
孤立した部落が湖畔に奇妙なほどに静まりかえって存在していた。

1982年 筆者撮影

静まり返った村の一角。格好の被写体である。

1982年 筆者撮影

波止場は最小限の作りになっていて、施設らしいものはなく砂浜にジカづけで、ボートに板を渡して、降りる類のものだった。
ボートが20mほど浜に近づいたところで、数人の男達が船付場をうろついている。それぞれが地面にツバを吐きかけだしている。気持ち悪いことおびただしい。
後にわかったことだが、この行為は外部から来た人が、村に悪霊を持ち込むのを防止する慣習とのことだった。今でもこういった行為が行われているか定かではない。

村の船着場近く。1982年撮影。

1982年 筆者撮影

木っ端拭きの屋根、外壁も木っ端拭き。
背景の絶壁の木々は長期にわたり切り倒されている。

1982年 筆者撮影

トゥルニャン村の人々は前述のトゥンガナン村と同様、16世紀以降バリ島に到達したマジャパヒット王朝の文化的、宗教的影響を受けなかった、同じ原バリ人の一派と解釈してよいと思う。

このような秘境ともいえる地理的条件のもとで、外部環境の到達が難しく、あるいはそれを拒絶することも出来たはずだ。約300人ほどの人たちが、ここに何世代にもわたって住んでいる。

村人相互の間で結婚などが長年にわたって行われ、近親結婚からくる障害を持っている人が多いということだった。そういったバックグラウンドもあり、村に漂う閉鎖的な空気感をとても強く感じた。

もちろん村の寺院や住宅の見学も許されざる雰囲気であり、バリ島下界の村のような開放感を感じることはない、ここ特有の世界であった。そういう禁制をなんとかかいくぐって、写真撮影を行った。

村落のはずれにあるストゥ-パ。

1982年 筆者撮影

村の公共スペースである集会所。おどろおどろしい空間を感じる。

1982年 筆者撮影

世界でも極めて稀な風葬墓地

トゥルニャン村を訪れたもう一つの目的は、世界でもまれな風葬地、すなわち墓地を見ることであった。先ほどの村の船付場からこんどは手漕ぎボートで北方向に500mほどの岸辺に、彼らの墓地は、湖に迫る絶壁のふもとの極小の平場にあった。森が湖に迫っていて、大きな木々に覆われていて空がまったく見えず、暗ぐらとした湿気の多いところであった。

死者が村からここに運ばれ、穴を掘ることもなく死体が直接この湿気の多い土の上に横たわり、竹の囲いが設けられていた。鳥獣につばまれることがないようにするためだ。自然に死体が腐り果てるまでここにおかれ、後に頭の骸骨のみ回収され、村の安置所に治められる。残りの骨は回収されないどころか、その墓地に捨て置かれる。湖畔の淵にはほとんど平地がない。船無しで下界からのアクセスは不可能な場所だ.

1982年 筆者ガイド撮影

ところで、この風葬地をしばらく歩き回ったのであるが、全く異臭がしなかった。不思議に思って地元の案内人に尋ねたところ、次のような説明があった。
この現象に興味を持ったオランダの科学者のチームが現地を訪れ調査を行なったが、異臭が出ない原因を突き止めることが出来なかったそうだ。

この風葬地には、ある種の大木があり、その樹木が消臭に関係しているのかもしれないという憶測が、結論であったが、今でも信じられない現象である。

村の公共墓地。7-8体が風葬されていた。1982年撮影。

1982年 筆者撮影

この囲いの中に風葬体がある。

1982年 筆者撮影

この風葬地からサヌールのハイアットホテルに戻り、我々一行が最初にしたことは履物を徹底的に洗浄することであった。
そのあと夕食にレストランに行くとホテルの欧米系の総支配人に出会った。そこでこの日の風葬墓地の話をすると、彼は驚愕した。
通常外国人旅行者はそのような場所を敬遠し、めったに訪れることがないとのコメントであった。彼の立場からすれば、風土病や得体の知れない細菌をホテルに持ち込まれるのを恐れていたのも無理はなかった。

以上が1982年当時のこの村の記述である。耕すべき田畑も猫の額ほどで、アクセス可能な村の裏山の木々もほとんど切り倒されていた。典型的な限界集落がその当時まで存続していたのは奇跡といわないまでも、とても稀なことだとおもう。

近年21世紀になり、村の波止場に英語で[Welcome to Trunyan]と立派な看板が設置されている。LCCなどのフライトも増え、旅行のグローバル化にともない、この村も排他的ではなくなり、旅行客からの現金収入が将来の限界集落を存続させることであろうか?

TURTLE ISLAND

亀の島へ観光船で渡る。

1982年 筆者知人撮影

子供たちがウミガメを飼育、管理している。

1982年 筆者知人撮影

1982年 筆者撮影

ブサキ寺院

ブサキ寺院(Pura Besakih)は、バリ・ヒンズー教の総本山。
バリの人々が聖なる山として崇めるアグン山中腹に位置している。
一帯はブサキ寺院を山側の高所に戴き、30余の寺院の集合からなっている複合宗教施設である。。

幻の世界遺産」世界遺産登録を拒否

インドネシア政府が1990 年以降数回にわたり、ブサキ寺院を世界遺産候補のリストに登録しようとしたが、寺院側が猛反対しその実現に至っていない。

「世界遺産になったら色々な規制がかかり、バリ・ヒンドゥー教の寺院として不都合が生じるのではないか。」というのがその反対理由だそうだ。ブサキ寺院が「幻の世界遺産」と呼ばれる所以です。

ブサキ寺院と複合施設のグーグルマップ。

筆者達の4人グループが、1983年に訪れた当時は外国人旅行者はまれであった。
バリ島にバジェットエアーラインが増加して以降、大混雑の観光地になった。

1982年 筆者撮影

1982年 筆者知人撮影

村の木工所

バリ島ウブド近郊の家族経営の庭先の製材所兼木工所。
子供たちの遊び場でもある。

1982年 筆者撮影

大人は木工の細工に専念している。

1982年 筆者撮影

峡谷の石切り場

火山灰の永年にわたる堆積層が、川に削られ底に堆積岩が出現する。圧縮された堆積岩を掘り出して建材や彫刻材に使用している。地産地消の世界です。

1982年 筆者撮影

バリ島で異空間に浸った後、ホテルに帰還する

ホテルにあったアンティーク車。

1982年 筆者撮影

ホテルに戻り、リラックスする一行。

1982年 筆者撮影

バリ・ハイアットホテルをチェックアウト後の記念写真。

1982年 筆者撮影

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