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バリ島散策 #10/10
絵画
バリ絵画の原点
古典絵画ジャワ島マジャパヒット王朝の宮廷芸術の流れ
祭礼や儀式に使われる伝統的奉納芸能の一つ。ヒンズー教神話、ラマヤーナやマハバラータをモチーフにしたワヤン(影絵劇)の影響を受けた16世紀以来の絵画技法。
この伝統的な二次元的な技法は、今日まで受け継がれている。バリ島東部クルンクン郊外の村の名前を取って、カマサンスタイルと呼ばれている。(下)筆者撮影

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
バリ島東部クルンクン
カマサンスタイル
スマラプーラ王朝の古都クルンクンの宮殿。


カマサンスタイルの宮殿の天井画。

ネカ美術館 NEKA ART MUSEUM
著名な絵画コレクターのステジャ・ネカ氏によって建設され、1976年に開館した。カマサンスタイル、バトゥアンスタイル、ウブドスタイルなどの伝統的なバリ絵画を集めた展示館や、バリ島在住のオランダ人アリー・スミットの作品を集めた展示館、現代インドネシア絵画を集めた展示館などが配置されている。

バリ絵画の収集家であり美術家ステジャ・ネカ氏と筆者、記念撮影。ネカ美術館入り口前にて。(下〕2018年5月。シンガポール人で、聴覚にハンディーがある絵描きの卵たち3人を同行して、ネカ美術館を見学。

ウブド・ネカ美術館長、ステジャ・ネカ氏のサイン入りの冊子。2018年5月。

以下の絵画の写真は、ウブド・ネカ美術館のステジャ・ネカ館長から特別な許可を貰い撮影したものである。
ヨーロッパからバリ島に移住したアーテイスト達
ルドルフ ボネ (Rudolf Bonette)
1929年から1942年までバリ島に在住し、立体的表現を地元のアーティストに影響を与えた。
神話、宗教的モチーフ以外のバリの日常生活を描く。1936年 芸術家組織 ピタマハ(偉大なる光)に参画し、積極的に活動する。
1942年侵攻して来た旧日本軍に捕らえれれ、スラウェシ島の捕虜収容所に送られる。1947年再びバリ島に戻ったが、その後1957年に、インドネシアとオランダの関係悪化により、国外追放になり20年後にオランダで生涯を終える。 1895アムステルダム生まれ。1978年オランダで没。

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
ウブッド (Ubud) スタイル
この画法は、植民地時代の1930年代にルドルフ・ボネなどの指導により、西洋技法の影響を受け、ウブッドで透視法や陰影を取り入れて、宗教的要素から離れて村の生活などを描いたスタイルである。バリ島の人々の描写がバリを世界に知らしめるのに貢献した。

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
ヴォルター シュピース Walter Spies
ロシア生まれのドイツ人。モスクワのドイツ外交官の息子。1923ジャワ島ジョクジャへ。1927年バリ島ウブッドへ。ドイツ国籍のため、蘭領インドネシア当局に逮捕され国外追放。
絵画に西洋風透視画法を取り入れ、影や暈しなどを使い幻想的な作風で精神世界を表現し、後のバリの画家に影響を与えた。絵画のみならず音楽にもきわめて優秀な才能を持った人物。
セイロン島への航行中日本軍の爆撃を受ける。艦員の命令によりドイツの捕虜は解放されず溺死。(1895-1942)
この幻想的なバリ島の風景を誰よりも愛し、そのエッセンスをたぐいまれなる技法でをキャンバスに表現。

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
バトゥアン (Batuan) スタイル
西洋画法の影響をあまり受けず、遠近法、立体感のない伝統的な技法を受け継ぎ独自の進化をした細密画。ウブッドの南郊バトゥアン村のアーテイストから発生したスタイル。

I made Budi, (Neka Museum) ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
レンパッド(Lempad) スタイル
116歳まで生きた1862年生まれの画家、彫刻家、建築家。
生まれはウブッドの近郊で、文盲であったがSukawati王家に石彫師として仕える。Udagi、伝統的なバリの建築士として、寺院などの建立に携わったといわれる。
その後、画家としての才能を発揮、柔らかい線画の画風を確立した独特なアーティスト。戦前にバリに渡来したヨーロッパ人画家ののルドルフ ボネやヴォルター シュピース等と、1936年 芸術家組織 ピタマハ(偉大なる光)をともに加わるが、画風はまったく影響を受けず、独自の世界を開き、今日までバリ人として第一人者として認められている。

ネカ美術館、ウブド
I Gusti Nyoman Lempad 1862-1979、Undagi 彫刻家
流れるようなモノクロ線画

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
ミゲル・コバルビアス
Miguel Covarrubias 画家
イラストレーター
1904-1957
メキシコ生まれ。1930年新婚旅行でバリ島へ。1933年再びバリ島に滞在。西洋人から見た戦前のバリ島発見のバイブル書として有名なIsland of Bali を1937年出版。後世に大きな影響を与えた。


Island of Bali, 1937年出版

戦後の新しいスタイル
アリー・スミット (Arie Smit) 1916-2016
1938年オランダ東インド軍参加、3ヵ月後バタビア(現ジャカルタ)に派遣され、蘭領インドネシアの地図製作に従事、バリ島の地形のリトグラフィーに携わる。1942年ジャワ島東部に派遣され、旧日本軍の捕虜になる。その後3年間、タイービルマ間の鉄道、道路建設に強制労働。戦後オランダに帰る。その1946年に新生インドネシアに再渡航、1951年にインドネシア国籍取得。
1956年ルドルフ ボネの招待によりはじめてバリ島を訪れる。鮮やかな色彩が特徴。その後ウブッド プネスタナン(Penestanan)に居住し、若い農民のなかから沢山のヤングアーティストを育て上げる。2016年、99歳までバリ島に生きデンパサーで亡くなる。

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
ありし日の画家アリー・スミット (Arie Smit)とウブド・ネカ美術館長、ステジャ・ネカ氏。

ヤングアーティスト 1960年代
ウブッドのプネスタナンでアリー・スミットなどの影響を受けて育った農民出身の絵描きたち。熱帯的な極彩色を使ってバリ農村の生活、祭礼などを表現したものが多い。
代表的画家;I Kutut Soki , Londo, Wayan Balik, I wayan Nuada, I Nyoman Tjakra . I Wayan Pugur,
作品名;Weding Ceremony. 婚礼の集まり。I Nyoman Tjakra .1970s。(下)

ネカ美術館、ウブド
作品名;In the Village. I Wayan Pugur, 1970s。普通の農家の生活を表現。(下)

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
プンゴセカン(Pengosekan)スタイル
1970年代初頭、ウブド南部のプンゴセカン村で、ピタ・マハ芸術協会の流れを組む芸術家たちの活動が始まりました。花鳥風月を題材に描いていた画家と(影絵芝居)用の人形画家が出会い、熱帯花鳥画という新たな流れが誕生しました。プンゴセカン・スタイルと呼ばれるこの流派は、ヨーロッパ市場やインテリア・デザインの領域で人気を博している。
JIRNA STUDIO
1996年、バリ島市中免税店を筆者が設計した際、天井画を依頼したアートスタジオの作品です。



ジルナ氏のアートスタジオ。1996年撮影。

近所の子供達に下絵に沿って下塗りをさせる。

その後師匠が何度も上塗りを重ね完成。




完成したパーツ。これらの花風鳥月を組み合わせ、ショッピングモールの天井画が完成する。1996年(下)
その後1998年インドネシアにアジア経済危機が襲いかかり、5年後にギャラリーを訪ねたが、シャッターが下りていて、その後画家の所在不明ということになり現在にいたるまで残念ながら再会できていない。

I GAK MURNIASIH (Murni)
バリ島のプンゴセカンスタイル絵画の第一人者的な女流作家。
少女時代の性的トラウマをバネにして、独自の世界を表現し、独特の画風をクリエート。
1966年生まれ。2006年39才の若さで死去。柔らかい曲線と独特な色彩が特徴。


ウブドのメインストリートから田園の細道を入って行くと、この Murniのアトリエにたどり着く。

1996年撮影
その簡素なデイベッドが置かれている一角の竹材の壁に作品が掛けられている。

1996年撮影
CONTEMPORARY ART
現代インドネシア絵画

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド

ネカ美術館、ウブド
ウブドはなぜ芸術の村と呼ばれるようになったのか?
ウブドがバリ島の芸術の中心地になったのは、ウブド王家の関わりを抜きにして語ることが出来ない。
ウブドの王家(チョコルド王家)は1930年のフランス・パリ植民地博覧会で、はじめてバリ島のガムランと舞踊を世界に紹介した。これにより、ヨーロッパでは空前の「バリ・ブーム」が起こった。
ドイツ人画家ルドルフ・ボネ(前述)、オランダ人画家ウォルター・シュピース(前述)、そしてメキシコ人音楽家ミゲル・コバルビアス(前述)など多くの外国人アーティストたちが、ウブドの王家の庇護を受けて、ウブドに住み着くこととなった。
アントニオ・ブランコ ブランコ美術館
ウブドのメインストリートの表示板。私設の美術館に公的道路標識は珍しい。ウブドでは、芸術家が尊敬されている。

ブランコは1911年9月15日、フィリッピンの首都マニラで生まれた。父はスペイン人、母はイタリア人。高校卒業後、ニューヨークの国立芸術専門学校でブランコの研究課題は解剖学。特に人体について興味を持っていたといわれる。
ブランコは「バリ島」とタイトルされる一冊の本に魅了されていた。著者はメキシコのアーチスト、ミゲル・コバルビアス(前述)である。見聞を広めるため世界を放浪する旅に出る。
コバルビアスの本(ISLAND OF BALI)に書かれてあるウブドに大変興味を持っていたブランコは、1952年ウブドの王族チョコルド家を紹介してもらった。こうして、チョコルド家に世話になり、王宮での滞在では、何度も中庭で舞踊の練習をする風景を見た。だんだんとバリに魅了されていく。
しばらくして、チョコルド家の好意で、ブランコにチャンプアンの丘に土地を無償で2ヘクタールの土地、家とアトリエを作ってくれた。竹の骨組みと竹で編んだ壁の簡素な小屋が、村人の協力を得て作られた。ブランコがウブドで会った人々は、チョコルド家も含めて、皆、感受性豊かで、友好的な思いやりのある素晴らしい人々だった。
情熱的で風変わりな性格のブランコの画風は、それを証明するかのように自由奔放なものであった。お手伝いの家族の中に美しい娘がいた。名前をロンジ(Ronji)といい、王宮で子供たちに舞踊を教えている女性だった。彼女は名の知れた踊り手だった。後にブランコと結婚をする。
1995年に筆者がアントニオ・ブランコ氏のアトリエを訪れたときはまだ存命で、彼が日本で展覧会を開いたことを、誇らしく話していたのを覚えている。とてもユーモアのある人物であった。



ウブッドの美術館の位置図。

筆者作図
写真 筆者撮影