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インド紀行 2015年
#21/26
ダージリン #1
シッキムとダージリン
旧シッキム王国
旧シッキム王国は、 1642年、チベット仏教の一派が亡命し、設立した王国で、1975年まで存在した。この王国は、北にチベット、西にネパール、南に英領インドに囲まれ、こうした複雑な民族構成と複雑な地形により、常に争いが絶えない土地であった。19世紀の初めごろまでは、この山岳地域はシッキム王国の統治下にあった。そして山裾の平原の一部はネパール王国の領地であった。
ダージリン
1828年、英国東インド会社一行、この地を訪れ、英国兵士の保養に適している ことを 確認。
1850年、このシッキム地域の一部をインドへ併合。
1866年、今日のダージリン地区が英領の管理下になり、インド低地の暑さをし のぐた めのリゾートとして開発、発展した。
1835年から1849年まで人口が100倍になった。

筆者 スケッチ
1856年ごろに、お茶の組織的栽培が始まった。茶畑のプランテーシヨンオーナーとして英国人の入植が始まり、その後ダージリンテイーとして、世界中にこのブランドのマーケットが広がることになる。
1842には、ベンガル平原とこの山岳の町を結ぶ道路が出来た。
1881年になると、ベンガル平原とダージリン間が鉄道で結ばれ、物資の輸送に決定的な進展をもたらした。
お茶の栽培に適した気候を十分に生かして、プランテーションが拡大し、それに伴い大量のネパール人労働者が入植した。こうして、馬の背のような狭隘な尾根伝いに、過密な高原都市が膨張し続けて今日に至っている。
尾根を走る道路沿いは、建物、交通とも超過密状態であり、町の拡張方向は、谷に向かっての傾斜地にのみ残されている。

筆者 スケッチ
ダージリンの デケリンホテル
旅行をするにあたってダージリンのホテルを探してみた。
日本でいえば、軽井沢や日光の様な、ちょっとしゃれた洋風・リーゾート風の物件を探したが、見つけることが出来なかった。
そして、インドにあるようなマハラジャの館風か、マレーシアのカメロンハイランドにある英国コロニアル風のものも探したが、気に入ったホテルを見つけることが出来なかった。
それならば、この町の地形的な特徴を理解した上で、ホテルからのヒマラヤ山系の眺望を優先して予約したのが、このでデケリンホテルである。
この建物の後ろ側が、崖の斜面に食い込んだホテルである。
なんとこのホテルのレセプションは6階にあった。
そしてなんとエレベーターが無い!!
酸素が不充分な高地で6階まで荷物を抱えて階段を上がることになり、その辛さを身をもって体験することになった。

写真 筆者撮影 2015年3月
ホテルの部屋には、旧式の暖炉、暖房設備がありました。
外気は夜になると10℃以下になります。夜寝る前に、携帯してきたスコッチウイスキーを生でチビリとやれば、後はヒマラヤの天国です。

写真 筆者ガイド撮影 2015年3月
ホテルのロビーからダージリンの町並みを撮影する。
ダージリンに着いた翌日の朝、この地では極めて稀な晴天になっていた。
ヒマラヤ山脈の真っ白な雪山が、ホテルのロビーから手に取るように見えている。やはり、このホテルを選択したのは、正解であった。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンは、インドの西ベンガル州の ダージリン県の中心都市である。人口は2011年3月1日時点で11万8805人。 平均標高は約2134mである。
以下の写真はホテルのロビーから望遠で撮った写真である。(下6枚)

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
ぎっしり詰り立て込んだ建物群

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
工事人の飯場でもあるようだが、もしかして公共住宅?

写真 筆者撮影 2015年3月
ヒマラヤを眺望する
カンチェンジュンガ山、 8,598M
カンチェンジュンガ は、チベット語で「偉大な雪の5つの宝庫」とある。
ネパール東北部とインド・シッキム州の国境にある。
エベレスト(標高8,840m)、K2(標高8,611m)、に次いでカンチェンジュンガ は、世界第3位の 標高 8,586 m である。
1838年から1850年頃まで最高峰と考えられていた。世界で3番目に高い。

写真 筆者撮影 2015年3月
コルカタから、はるばる陸路を14-15時間かけてダージリンにやってきて、この一枚を撮ることが出来た。
地元のガイドによると、到着1週間前は霧の日が続いていたそうだ。
1年を通してもこのような快晴は、とても限られているとのこと。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
尾根の先端部分は、保護林となっていて、崖下に町が伸びている。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンは街の中心が尾根伝いに誕生したので、その後の人口増加による街の拡張は尾根から谷に向かって伸びている。
山の斜面が開発され、各種の住宅建築が展開している。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンのメインストリート
ダージリン県、役所の建物。江戸時代後期からの建築物だ。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリン市街地中心部の商業地区。
このあたりの街区は、みな坂道ばかりで直線道路もない。

写真 筆者撮影 2015年3月
植民地時代の建物が、残っていた。 歴史の証人である。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンのメインストリート。建物の屋根は急勾配のものが多い。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
危ない建物
ダージリン市街地を歩いて、あまり観光客の入りこまない地域に入ってみた。4、5階建ての建物が、階を上るごとに、道路の境界線を越えて道の上に張り出している。
狭い私有地を超えて、公有地である道路側に食い込み、迫り出している。役所の当局が袖の下を貰っているとかんぐりたくなる。下写真の様に、両面が道路の場合、頭でっかちになり、地震が発生した場合、真っ先に崩壊すると思われる。見たくない光景だ。

写真 筆者撮影 2015年3月
高低差のかなりある、Y字形の交差地点の楔形の敷地に建つ建物。上部は、道へはみ出している。 10年後も20年後も、存在していることを祈る。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンは地震多発地域の一つ
ダージリンの郊外を車で周遊することにした。
下の写真を見てわかる通り、山肌稜線の傾斜はほぼ45度に近い。
その斜面に建物を建てざるを得ないほど、この地は人口が急増し、それに対応出来る平地が決定的に不足している。というより完無と言ってよい。

写真 筆者撮影 2015年3月
元来、海底から隆起した水成岩が、この土地の地盤を構成している。
そのため地盤耐震性に劣り、大雨などによるがけ崩れ等にも弱いはずだ。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
天まで届けと建物が覆うい重なっている。
地震がおきたら、地盤の強さだけが、頼みの綱である。

写真 筆者撮影 2015年3月
道路脇の崖にへばりつく建物の列。

写真 筆者撮影 2015年3月
道路下に伸張する建物群。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンのメインストリート
鉄道駅から細道を上り、ホコテンのネルーロードを登りきった広場までが、最も人通りが多い。途中はずーっと坂道、しゃれたパン屋さん、みやげ物、骨董品、織物を売る店が、切れ目なくつながっている。
そしてここで唯一であろうまとまった平地である広場に到達する。
この広場以外の建物は、すべて斜面を利用して建てられている。
地盤は地質的には、崩れやすいといわれ、耐震に問題を抱えている。
ダージリンの繁華街。

写真 筆者撮影 2015年3月
チベットの骨董品が陳列されている。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリン唯一の広場。
Darjeeling Chowrasta Mall Ground
ダージリンで唯一人が集まれる広場。ここ以外にこの大きさの広場は無い。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
左側に男性のグループ、右側に女性のグループ。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
ケータイに集中する2人の若い女性。
右隣にアナログの新聞のニュースを見るオジサン。

写真 筆者撮影 2015年3月
ダージリンは人種のルツボで多数の言語
ダージリンでは、多数の言語が飛び交っている。
多数派はネパール語でその他にチベット語、ヒンディー語、ベンガル語、英語の順となる。一地域でこれらの沢山の言語が話されている町は珍しい。

登校する制服を着た男子生徒の一団。
写真 筆者撮影 2015年3月
登校する紺色の制服を着た女子生徒のグループ。

写真 筆者撮影 2015年3月
登校するエンジ色の制服を着た女子生徒のグループ。チベット系の顔立ちいる。

写真 筆者撮影 2015年3月
広場で焼きとうもろこしを売る女性。

写真 筆者撮影 2015年3月
横丁のローカル市場。

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月

写真 筆者撮影 2015年3月
写真 筆者撮影 2015年3月